コラム〜編集日記〜

第1回


多分40歳過ぎた頃から、紀元2000年には自分あるいは日本ひいては世界はどのようになっているのだろうという思いが時折よぎるようになりました。そして紆余曲折を経て2001年にたどりついた今、自分の世界も以前には予想もつかなかった事態に突入していると感じます。一言で言えば、これまで世界を支えてきたシステムがもはや通用しなくなりつつあり、まさに二十一世紀の初めにそれを予告あるいは警告するような事件として同時多発テロと狂牛病が発生したというように思われます。自分自身、2年ほど前から牛肉を食べるのを事実上やめました。このことに特に深い意味を感じているわけではありませんが、やはり時代の流れに影響されていることは確かだと思います。


ところで、「中央公論」4月号で「狂牛病の教訓」という、人類学者レヴィ=ストロースが書いたエッセイが掲載されたのをご存じでしょうか?お読みになった方もいらっしゃると思いますが、読んでいない方のために、参考までにそのエッセンスをご紹介しておきます。


「人類が抱える肉食という病理」という副題が示唆しているように、ストロースは肉食に対してきわめて否定的な見方をしています。「そもそもエデンの園で、アダムとイヴは木の実と穀物を食べて生きていた。人間が肉食をするようになったのは、ノア以後のことにすぎない」。また、文字を持たない人々の一部にとって、狩人(または漁師)と動物や魚類(獲物)は親族関係にあり、したがって獲物を食べることは「食人習俗(カニバリズム)」のわずかに弱めれた一形態だった。しかも彼らにとって、世界に存在する生命の総和は常に均衡を保っているべきであるので、狩人や漁師がその総和の一部を取り上げれば、彼ら自身の寿命をその代価として支払うべきなのである。つまり、動物や魚という他者の肉を食べることは、実は自分自身を食べていることになるのだ。そうストロースは言います。


で、ストロースによれば、狂牛病は「人間によって牛たちが共食いを強いられた」ことに由来しているのですが、これは私たちに死をもたらす病気に感染する不安を与えているだけではなく、牛たちにまで拡張されてしまった共食いというものが私たち−−特に欧米人−−の中に培われてきた恐怖を明らかにしたのです。さらにこの病気の原因となっているピュリオンというタンパク質の一種は、種の境界を乗り越えて他の動物にも伝染する恐れがあるということで、今や人類だけでなく動物にも大きな脅威となりつつあるということです。


さらに肉食を支えている牧畜そのものが人類の存続にとって問題になりつつある。「これからの半世紀のうちにおそらく二倍になる人口を抱えた世界で、家畜や人間の飼育する動物のすべては、人間にとっての恐るべき競合者となる。ある計算によると、アメリカでは、穀物の生産量の三分の二が動物の飼料として使われている。しかも、これらの動物が食肉の形でわれわれに返してくれるカロリーは、彼らが生きているあいだに摂取するカロリーより、はるかに少ないということを忘れてはならない」。生き残りのためには、間もなく現在の穀物生産量のすべてが必要になり、家畜や家禽に与える分はなくなり、食肉に頼った食生活そのものが根本的見直しを迫られざるをえなくなる。「専門家たちの見積もりでは、もし全人類が菜食主義者になれば、現在耕作されている面積の土地で、いまの二倍の人口を養えるという」。


そして今後の見通しに触れて、ストロースはこう述べています。「西洋社会で、食習慣を変えようとしはじめているかのように、肉の消費が自然発生的に低下傾向にあるのは注目すべきことだ。そうであるとすれば、狂牛病の災厄は、肉の消費を方向転換させることで、現在起こりつつある変化を加速させる役割を果たすにすぎないということになる」。


このエッセイを読んだ時、以前読んだメレジコーフスキイ著/昇曙夢訳『トルストイとドストエーフスキイ』(創元文庫、一九五二年)中にあった「もし人類が進化するなら、恐らくあらゆる人が肉食及び動物の残酷なる殺戮を辞退する時が来るであろう」という言葉を思い出しました。これは、菜食主義と肉食の節制とを説教したトルストイの『第一歩』という小論に関連して述べられたものですが、人類の方向性を予言するものとして重要だと思います。


さて、この度『二つの世界を生きて──一精神科医の心霊的自叙伝』を刊行いたしますが、これも実は肉食の問題と深く関わっています。著者のガーダムはコリン・ウイルソンの『超能力者』(中村保男訳、河出文庫)に登場する三人のサイキックのうち最後に登場する、精神科医で心霊能力者という特異な人物で、『二つの世界を生きて』を読む人は、もしこれが自叙伝だと知らされなかったら、オカルト小説だと思い違いするかもしれません。それほど驚くべき内容なのです。わが国では1970年代に数冊紹介された(『霊の生まれ変わり』『妄想とノイローゼ』『絞首台と十字架』)ものの、訳者に恵まれなかったせいか、あまり話題にならぬままほぼ忘れられていたようです。


この度大野龍一氏(小生の親類ではありません)が、初の仕事とは思えない流麗な訳文で原書の魅力を十分に再現してくれました。以下に訳者のプロフィールを紹介させていただきます。


1955年和歌山県本宮町生まれ。早稲田大学法学部卒。少年時代、執拗な強迫思考と自己疑惑に悩まされる。十代末に突然の解消を経験。大学入学後、その謎を解き明かそうと、デカルト哲学を導きとした強迫思考のメカニズムについての論考『理性の自己矛盾について』を書く。また、自身の不可解なヴィジョン体験を元に小説『悪魔来訪』を書くが、両者を結びつけて考えることはなく終わる。以後、悪と自由の問題に大きな関心を寄せ、社会科学から哲学、文学、宗教、神秘主義、精神病理学まで広範囲の文献を読み漁る。三十代半ば、正規に臨床心理学を学ぼうと学習塾管理者のかたわら某大学院に入学するも、無用の長物たる修士の肩書を取得しただけで得るところなく終わる。その後、深刻な抑欝に陥り、数年を経て回復するが、その過程であらためてガーダムに着目、正確な理解を期そうと取り寄せた原書の中に本書が含まれており、一読して驚く。現在、ガーダム最晩年の精神医学的著作The Psychein Medicine(『医学におけるプシュケ』)の翻訳を準備中。


本書で通奏低音の役を果たしているのは「異端カタリ派」で、なかにはニワトリを殺すことを拒んだがゆえに異端審問にかけられ、処刑された聖職者がいるという逸話からわかるように、「キリスト教の中の仏教」と呼ばれることさえあるというユニークな宗派で、聖職者たちは民衆から「善信者(お人好し)」と敬愛をこめて呼ばれていたそうです。当然、人間だけでなく、動物にも優しく、特に樹木を大切にしたと言われています。それがなぜカトリックによって異端審問にかけられ、ついには1028年に大虐殺の憂き目にあったかについては「別註:異端カタリ派とラングドック」をお読みください。著者のガーダムはその受難時代に暮らし、拷問で獄死したロジェールなる名門貴族を「前世人格」に持っていたのであり、さらに診療に訪れる様々な魅力的女性たちもこのカタリ派に何らかのゆかりがある人たちで、しかも本書中でそれぞれ重要な役を果たし、全体として複雑で興味深い物語を構成しているのです。


ここで注目すべきは、極力無用な殺生や肉食を避けたとされるカタリ派の聖職者たちとその支持者たる民衆が大虐殺されたことによって、ヨーロッパにおける非肉食系の流れが大きく阻害されたのではないかと思われることです。その後ヨーロッパでは圧倒的に肉食系が支配し、ついには最近の狂牛病騒ぎをきっかけに肉食の根本的見直しを迫られているという歴史の流れを見る時、カタリ派の重要性を再認識する格好の機会が訪れていると言えるような気がします。


現代人は、肉を食べたらその分だけ自分の寿命をけずるべきだなどとは思わないでしょう。が、マクドナルドのハンバーグ用の牛を飼育するために熱帯雨林が伐採すれば、それに頼って生きていた様々な動植物が犠牲になり、地球環境は悪化し、結局は回り回って環境破壊とそれに伴う健康被害の形でつけが回ってくるわけで、必ず悪いカルマの種子をまけば、それは育って、まいた本人に戻ってくるのです。


ついでながら、『真の自己責任と自己実現の教えとしての新カルマ論』はそういった個人と世界との相互関係性をわかりやすく説いていますので、現代世界の状況を理解する上で参考になると思います。


なお、現在、来年3月までに、『回想のグルジェフ──ある弟子の手記』(C.S.ノット著、古川順弘訳)、『〈ワン・テイスト〉──ケン・ウィルバーの日記・上巻』(ケン・ウィルバー著、青木聡訳』、『平和への勇気──家庭から始まる平和建設への道』(ニール・ダイヤモンド著、高瀬千尋訳)を刊行すべく準備中です。
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