第3回
3月中旬に『〈ワン・テイスト〉──ケン・ウィルバーの日記・上』(青木聡訳)を刊行いたしましたので、そのご案内がてら附随的に感じたことを述べさせていただきます。
ウィルバーはアメリカでは根強い人気があるようですが、わが国ではいま一つパッとせず、最近『万物の歴史』(拙訳春秋社)がようやく第3版が500部数刊行されたぐらいで、まさに細々と紹介が続いている程度です。アメリカでの根強い人気の理由の一つは(推測で言うのは危険ではありますが)、おそらくウィルバーに「スーパーマン」幻想、といってもかつての空を飛ぶあのスーパーマンではなく、内面的な意味でのいわば「スピリチュアル」なスーパーマンを切望する、主に男性読者が相当多数存在するからではないかと思われます。これらの読者はこれまでの物質主義的生き方への反省を込めて、外面ではなく内面を豊かにしたいという願望を抱いており、さらにこの面でもアメリカが世界一になって欲しいといった思いにかられているのかもしれません。もちろん、ここには大きな危険があります。つまり、外面のかわりに内面を豊かにすると言っても、それは「蓄積」することに変わりはないからです。
これについて考える時思い出されるのは、グルジェフ・ワークにおける「本質=エッセンス」と「人格=パーソナリティ」の関係です。つまり、通常の人生の目的のためには、パーソナリティの形成で十分ですが、人間のさらなる発達をめざすワークシステムでは、成功した政治家、科学者、肉屋、パン屋等々であること、すなわち「良き家長」として十分にパーソナリティを発達させた時が新たな成長段階の出発点とみなされます。これは、トランスパーソナル心理学でいう「健全な自己」と対比されます。
グルジェフの高弟モーリス・ニコルによれば、福音書で言われていることの多くは、実は「パーソナリティを犠牲にしてのエッセンスの発達」についてのものです。世間的名声や評判、豪邸、宝石、グルメといった「豊かさ」にもかからわず、自分が「空しい」と感じ始めた時、その人は第3の発達段階に近づき、自分の真の部分であるエッセンスが成長でき、聖書の放蕩息子のように空しく感じるかわりに、意味の感情に満たされ始める、そういう状態に達したのです。
ところが、外面的豊かさにもかかわらず「空しい」と感じている人々が、内面的豊かさへと目を転じる時に陥りがちな思わぬ落とし穴があります。つまり、その課題がパーソナリティを覆っている「偽りの部分」(私たちのパーソナリティのうちの、プライド、虚栄心、様々な自己イメージなど、エゴを膨らませるすべての要素なら成る部分)によって取り組まれると、なんらかの手段によって獲得された内面的豊かさ(と思われているもの)自体が、かえってさらに偽りのパーソナリティの殻を厚くしてしまいかねないということです。「私はこれこれのスピリチュアルな修行をした」という思いが、「スピリチュアルなプライド」を追加してしまう危険があるということです。いわゆる求道者の多く、あるいは怪しげなグルやその弟子たちが漂わせているなんとも言えない不快な雰囲気は、この「偽りのパーソナリティ」から放たれるものなのです。知識人とか文化人とか言われている人々も同様で、多くの場合借り物の知識でできた「偽りのパーソナリティ」が異常に発達しているのです。
ウィルバーは今回の『日記』のなかで、いわゆる「ニューエイジ」世界に蔓延している浅薄なスピリチュアリティ志向に鋭い探りを入れ、私たちがめざすべき正しい方向をユーモアを交えながらさし示していますので、ぜひ参考にしていただければと思います。