コラム〜編集日記〜

第11回


前回の日記では残暑について書いていたのに、今回は急に秋の肌寒さを感じながらのお便りとなりました。


前回お知らせしたように、現在、イギリスにおけるロジャーズ研究の第一人者の一人、ブライアン・ソーン先生著『カール・ロジャーズ』の刊行を準備中ですが、ちょっと遅れ気味です。その代わりにフォーカシングについてのコンパクトなすばらしい入門/解説書を近々お送りできそうです。


タイトルは『フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本−−クライエント中心療法を本当に役立てるために』で、著者は東京女子大学文理学部助教授で臨床心理士の近田輝行先生です。先生にはこれまでに『フォーカシング事始め』(共著、金子書房)や『フォーカシングへの誘い』(共著、サイエンス社)などの著書があります。


フォーカシングの体験をカウンセラーの基本的態度を身につけるための近道としてとらえ、クライエント中心療法の核としての「体験過程」に焦点を当てつつ、ロジャーズ、ジェンドリンからインタラクティブ・フォーカシングまでの流れをやさしく解説した好著です。


本文は約160ページほどでコンパクトですが、これまであまり触れられなかった点を解明するなど、フォーカシングに関心にある専門家だけでなく、一般読者にもぜひお読みいただきたいと思います。10月中〜11月初めに刊行の予定です。


また、これと並行して『この永遠の瞬間(とき)−−夫オルダス・ハクスレーの思い出』も刊行する予定です。五十代半ばのハクスレー夫妻と識り合い、マリア夫人の死後、乞われてその妻となったキャリアウーマン、ローラ夫人の、出会いから十五年後のハクスレーの死までをエピソード豊かに綴ったメモワールです。


これはハクスレー研究の第一級資料であり、物議をかもした彼のLSD実験の真意や、誤解されることの多かったその神秘主義思想の理解に決定的な重要性をもつだけでなく、清冽なラブストーリー、含蓄豊かな人間ドラマとしての面も備えているという、バラエティーに富んだ内容の本です。


これはずいぶん前、編集者がたまたま本郷の東大前の古書店で見つけ、クリシュナムルティのことが出ていたので資料として保管しておいたものです(そのあたりは拙著『クリシュナムルティの世界』に記載してあります)。今回これを大野龍一さん(ガーダム著『二つの世界を生きて−−一精神科医の心霊的自叙伝』の訳者)が、2000年度発行の原書新版に基づいて訳してくれたもので、やっかいな本をよくこれだけ優れた日本語に訳して仕上げてくれたものだと思わず感嘆してしまうような出来上がりとなっています。


参考までに主な内容をご紹介しておきます。○出会いと交遊○マリア夫人の死○抱腹絶倒インスタント結婚式○ハクスレーの視力をめぐる誤解と中傷○火事による自宅の全焼とその余波○クリシュナムルティの知られざる一面○離婚の危機○六十四歳のハクスレーが妻宛に書いた熱烈なラブレター○テープ記録に基づくLSD実験の詳細○未完に終わった最後の小説の全文○忍び寄る病魔○遺作「シェイクスピアと宗教」執筆の凄絶な経緯○ハクスレー最後のメッセージ○死の一日のドキュメント○霊媒による不可思議な「死後通信」レポート


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ここで話はがらりと変わりますが、常々翻訳に携わり、また他の方々の訳文や文章を拝見している者として、今さらのように言葉の不思議さというものに思い及ぶことがしばしばです。編集者は、翻訳作業というのは「船頭さん」のようなもので、日本語と英語をはじめとする外国語との間の橋渡し役だと思い描いています。うまくその役が果たせているか、絶えず不安につきまとわれながらの作業です。何を今さらと思われるかもしれませんが、例えば、「真理」「真実」「実在」あるいは「静寂」「静穏」「静謐」という言葉をどう使い分けたらいいのか、「実在」などは「リアリティ」とカタカナ表記のほうがいいのではないか、あるいは「ルビ」をふるべきかなどとしばしば迷うわけです。


つまり、訳文には言うまでもなく適当な量の漢字を交えますが、外国語の単語にうまく適合しているか不安なだけでなく、漢字の元々の象形文字としての意味を基本的にきちんと知らずに使っているのではないかという不安に絶えずつきまとわれているのです。それで最近、この漢字について少し勉強するため、前から読んでみたいと思っていた白川静先生の本を入手しました。一般向けに書かれたと思われる著述をまとめた『文字遊心』(平凡社)です。約500ページのこの本の中には、案の定、底深い漢字の世界が広がっていました。白川先生はいわば「漢字霊」のような方で、漢字についての透徹した理解を踏まえて、83歳の今も盛んに研究・啓蒙活動に携わっておられます。


『文字遊心』をざっと読むと、私たち(少なくとも編集者)が漢字が元々何を象(かたど)っていたかをいかに知らずに使っているかがわかり、愕然とします。例えば、そもそも文字という場合の「字」とは何を表わしているのでしょう? 白川先生によれば、これは「幼い子供が家のみたまやにお参りをしている形」です。これは生まれた子を養うかどうか、氏族員として認めるかどうかということを、祖先の霊にお伺いして、その許可を得なければならないということに関わっているというのです。お参りをして「養ってよろしい」という許可が下りて、字(あざな=呼名)をつけるというしきたりになっており、ですからこの字は「ヤシナウ」と読むのが本当なのだそうです。


では「安」という字は? 「家の中に女が安らかにくつろいでいて、男は外で働いて、女は家でアッケラカンとしているのである」と普通の本には書いてあるが、実際はそうではないと白川先生は言います。「女の上には水滴が垂らされている。水滴を垂らすということは、みそぎをする、お祓いをする意味なのです。他所からきたお嫁さんは、実家の氏族神と、あらたに嫁いできたところの家の氏族神と、神様がちがうので、しょっちゅうけんかしなければならないのです。嫁と姑と合わないというのは、実はそういうことなのだ。ちがった氏族神同士がけんかをするから、嫁と姑とは合わないのが当然なのです。古代の文字から言えば、ですよ(笑い)」とおっしゃっています。


こんなふうに象形文字としての漢字を読み解いていくと古代中国の人々の習俗が鮮明に浮かび上がってくるわけです。つまり、考古学的堀り起こしが可能になるわけです。そこでもう一、二、ご紹介しておきます(後は先生の本を直接お読みください)。


「伐」。これは人を殺すことです。「首のところに戈(ほこ)を懸けて、頭を切る形です。これは卜辞にたくさん出てくるのですが、特に伐姜という例がじつに多い、さきに嶽神の子孫として述べた姜人(もと牧羊族で、戦争を嫌っていた人々−−編集者注)が、その犠牲者であった。この殺した姜人をいろいろな呪的な方法に用いたと思うのですが、殷の王墓の前に土穴を掘って、そこに首を十個ずつ、体は別に十個ずつ、何十列にもわたって並べて埋めてある。それを断首坑という。それは大変なもので、何千人にも上ります」。中国の学者は、これこそ古代奴隷制の証拠だと言いますが、しかしわざわざ手間ひまかけて捕獲した人々を殺して埋めるといった無駄をするということは考えられない、と白川先生は言います。当時盛んにおこなわれていた首切りの目的は「呪的」なものであったにちがいない、というのです。


ついでに白川という名前を構成している「白」は? これは、元々は風雨にさらされて白くなった「頭蓋骨」を表わしているそうです。


そして最後に、私たちが「真善美」といった形で使う「真」。その初義は「顛倒した人」を示しているのです。それもただ顛倒(てんとう:この顛の字の真は「眞」の字です)しているのではなく、「行き倒れ」た状態のことだということです。さらに「瞋(しん)」とは、行き倒れて死んだ人が目を「瞋(いか)」らせている怨念の状態を表わしているのです。で、飢饉で行き倒れた死者たちは最も恐るべき呪霊をもっており、したがって鎮めなければならないのです。


ではなぜそれが誠実不変、ものの本然を意味する字となったのでしょう? 「そのような字義の転換は、思うにその事象に対する意識の転換ということに存するのであろう。人が生きるこの現実を仮にして虚幻なるものとし、真の実在はこのような現象のうちには存しないで、われわれの知覚を超えた、その背後にかくされているという、実と虚との転換によってもたらされる。有とは限定された現象の世界であり、このように限定されることのない無こそ真の実在であり、実有である。それならば、有限の生を棄てることは、すなわち無限の実有。真の世界に入ることではないか。ここには、古代の世界観における、思惟のコペルニクス的な転回がある。そしてこのような転回は、荘子によってなしとげられた・・・」


なお、『文字遊心』の冒頭は「狂字論」で、「狂」という字にまつわるさまざまな話が出ていますので、ぜひお読みください。「狂」が「超正常」という意味合いに近いところがあることがおわかりになるでしょう。


最後に、白川先生は第二次大戦中、漢字文化を共有しているという意味で「東アジアは一なり」という考え方をお持ちだったのですが、「満州事変」にはじまるアジアの戦争状態は、蘆溝橋に端を発して果てしない泥沼に陥り、敗戦までの長い間、暗い時期がつづいた。津田史学は圧迫を受け、諸学はみな皇国史観に塗りかえられ、民俗学も神がかりの色合いを深め」るといった、そういう情勢の中で先生の考え方はまったく時代に合わなくなったと述懐しておられます。
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