コラム〜編集日記〜

第21回


いかがお過ごしでしょうか? 前回はデイビッド・キセイン+シドニー・ブロック著/青木聡+新井信子訳『家族指向グリーフ・セラピー:がん患者の家族をサポートする緩和ケア』を刊行する運びとなったことをお伝えしましたが、予定どおり10月25〜26日に全国配本されました。これは優れた家族論でもあるので、単に医療現場の方々に読んでいただきたいだけでなく、家族としての危機対処力をつけるための参考として、一般の方々にもぜひ読んでいただきたい本です。家族の一員ががんになった時、その危機にどう対処し、また患者の死後遺族たちがいかにして質の高い生活をしていくかは、家族の結合力に深く関わっているからです。


現在は拙著編訳『片隅からの自由――クリシュナムルティに学ぶ』を12月初旬刊行/配本の予定です。これは、編者がこの数年に書いたり訳したりして関係者に紹介してきたものを中心にまとめてみたもので、善かれ悪しかれ編者のいろいろな思いが込められています。1996年9月10日に『摂大乗論 現代語訳』を刊行以来59册目で、年内にできれば刊行する予定の『気功革命 治癒力編』でちょうど60册となり、一区切りつけることができそうです。


来年以降もいろいろ企画していますが、小社刊行の本来の主目的の一つであるクリシュナムルティ紹介に立ち返り、新たな思いで取り組んでいくつもりです。『片隅からの自由』はその新たなチャレンジのための足掛かりになってくれればと願っています。


ところで、ウィルバー研究家で、日本トランスパーソナル学会常任理事の鈴木規夫さんが最近おこなった「トランスパーソナル学基礎講座」(11月13日)で、世界 のエネルギー事情に触れ、石油需給が予想をはるかに超えて急ピッチで逼迫しつつあり、7年後にはかなり危機的な状況に陥るという予測がなされていると話しておられたと、(小社事務所内にある)同学会事務局の長岡さんから伺いました。自己変革、自己超越どころではなく、まさに資源レベルでのサバイバルの時代がすぐ目の前に迫っているというのです。エネルギー資源確保への各国の切迫した努力にもかかわらず、いずれエネルギー不足が深刻になり、その結果、様々な軋轢が生じ、大虐殺があちこちで起こるといった事態に陥る恐れさえあると鈴木さんは予想しておられたようです(また聞きなので正確ではありませんが)。そういった状況に中でトランスパーソナル心理学に何が問われているのかを、鈴木さんはわかりやすく解説されたようです。


編者は今月(11月)に60歳になりました。団塊の世代である仲間の中には老後をのんびりと暮らすといった望みを持っている人がたくさんいるのではないかと思いますが、その望みがかなえられないかもしれないどころか、予想をはるかに超えるきわめて悲惨な現実を突きつけられる恐れさえありそうです。


そんな暗い未来に思いを馳せながら、にもかかわらず私たちがしなければならないことは、やはり「学び続ける」ことなのではないかと、最近ますます感じています。そのためには、どうでもいい「世間付き合い」を遠慮するなど、かなり工夫が必要になるでしょう。吉田兼好はこのことを十分に心得ていたようで、次のように述べています。


明日は遠国へ旅行すると聞いている人に向かって、落ちついてしなければならない用事を頼む者がいるだろうか。切迫した大事に着手しているとか、切実な悲嘆に暮れている人などは、他人のことなど耳に入れず、他人の喜びや悔みごとにも行かない。行かないからといって恨み咎める人もあるまい。それゆえ、年もだんだんとってきたり、病身になっていたり、ましてや出家している人などももちろん、同じことであろう。人間の礼儀、何が無視できないものがあろうか。世間がうるさいからといって、何事も義理で仕方がない、これを果たそうと言っていたら、願望は増すし、身体は苦しむ、心は忽忙になる、一生涯は世俗の些雑な小さな義理に妨害されてむなしく終わるのであろう。


日が暮れたが前途がまだ遠い、わが生ももはやよろめく力なさである。一切の世俗関係をうっちゃらかしてしまうべき時機である。約束も守るまい。礼儀をも気にかけまい。この心持を感じない人は、われを狂人と言うならば言え、放心者、冷血漢など何なりと思え、誹られたって苦にはしない。誉められたって耳に入れるものもない。


〈第百十二段 佐藤春夫訳〉


また、若い頃クリシュナムルティと親交を持ったことがある神話学者ジョセフ・キャンベルは、『神話の力』(早川書房)の中で次のように述べています。


これは、当今の誰にとっても絶対的な必要事です。一部屋あるいは一日のうちの一時間ほどを確保して、その中では、あるいはその間は今朝の新聞に何が書かれていたかも、誰々が自分の友だちであるかも、自分が誰にどんな世話になっているかも忘れるようにしなければなりません……これは、あなたが単にありのままの、あるいはあるかもしれない自分を体験し、さらけ出すことができる場です。これは、創造的孵化の場です。初めは、そこでは何も起こらないように思われるかもしれません。が、もしあなたが聖なる場所を持ち、それを用いれば、何かが結局は起こるでしょう。


これを真似たわけではないのですが、編者は同時多発テロ後間もなくテレビが壊れ、以来テレビを見ていません。新聞も読んでいません。たまに地下鉄の棚に捨てられている新聞などにちょっと目を通す程度です。これは、長年の目の酷使で慢性眼精疲労ぎみの編者にとっては、目の健康のために役立っているようです。


これからの年月をいろいろ工夫しながら学び続けていきたいと思いますが、その目的の一つは「獲得願望」からの自由を得ることだと感じています。学んで何かを得る、身に付けるのではなく、結果をあてにせずひたすら学び続けることが必要なのだと思います。刻々の学びの過程自体に意味があるのではないでしょうか? クリシュナムルティは次のように述べています。


その昔、本というものがなかった時代、教師、グル、弟子といったものがいなかった頃には、そうしたものに頼らない独創的な発見者たちがいたにちがいありません。『バガヴァッド・ギータ』も『バイブル』も他のいかなる本もなかったので、彼らは自分の力で見出さなければなかったのです。どうやってそれに着手したのでしょう?


明らかに彼らは訓戒に訴えることも、誰か他人の権威を引き合いに出すこともありませんでした。彼らは自分自身で真理を探究し、それを自分自身の心の中の神聖な場所に見出したのです。私たちもまた、自分自身の心の中の神聖な場所に真理を見出すことができるのです。 


今後小社から刊行される本が、「学びの精神」を養う際のお役に立てれば幸いです。 これからも読者の皆様とともに歩み続けたいと思います。
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