コラム〜編集日記〜

第41回


読者の皆様

 ながらくご無沙汰しておりましたが、久しぶりに編集日記を書かせていただきます。

 今回は、最近みつけた『武士道』という戦前(昭和15年)に出た本のことを少しお知らせします。幕末の英傑、山岡鐵舟が口述したものを安部正人なる人物が筆記し、それに勝海舟が付したコメントを合わせたたもので、いかにも古めかしいものですが、全編、「頭」ではなく、「肝」で考えたことが溢れています。

 鐵舟は、西郷さん率いる官軍が勢いよく江戸に侵攻し、放っておいたら江戸が火の海になって大勢の人々が殺戮されかねない危機にさらされていたとき、それを防ぐため、勝海舟と相談して、西郷さんと直談判するため、従者一人を伴って徒歩でまっしぐらに駿府(静岡市)を目ざして歩いていき、すぐに談判して江戸が大災難に見舞われるのを防いだという、憂国の士です。身長が188センチという大男で、剣術師範でした(ちなみに、西郷さんの身長は約180センチ、勝海舟は156センチだったそうです)。

山岡鐵舟 山岡鐵舟

 実は、この本を読んでいてとりわけ興味深かったのは、明治になってから(明治6年1月)、西郷さんがこっそり山岡宅を訪ねたときのエピソードです。長男の直記君が玄関のあたりで遊んでいると、まるで「怪物みたいな奇怪な風体の者が門からやってきた」ので、密かに見ていると、右手に太い木製の杖を携え、左手には徳利を持って、竹の皮の笠をかむり、藁箕(わらみの)を着け、雪雨が強く降っている寒い中を素足で、雪を蹴分けて玄関までやって来ました。脛(すね)をむき出し、鞋(わらじ)をはいており、面相はというと、眉毛が大きく、目が太く、耳が非常に大きく、 耳端が大きく垂れて、口の両側まである。
 それを見て、息子の直記君が内心恐ろしくなっていると、その「怪物」と思われるものが呟(つぶや)いて、「オトッサンは内に居るか?」と尋ね、「西郷が御伺い致したと云うてくれ」と言いました。それで「ばけものが何を言うか」とおじけづきながら、急いで奥に入り、父・鐵舟のそばまで近づいて、「おとっさん、玄関に変な怪物みたいなものが来て、『西郷が 来たと云うてくれ』などど云っております」と告げました。すると鐵舟が「 そうか」と聞き流しつつ自ら玄関に行って見ると、「げに」西郷先生に相違ないと知ります。そこで「サー、お入りくだされ」と言うと、西郷先生は応諾しつつ、懐中から手拭(てぬぐい)を探り出し、手足の汚れを拭い取り、箕笠を脱して、鐵舟に導かれ、奥室に至り、互いに寒暖の禮を述べます。それから(西郷)南州先生は携えてきた徳利(トックリ)を出して、言いました。

日本の国もまだ寒い、
少し熱を掛けましょう。
 
 これに応えて、鐵舟は言いました。

お考えの通り、外部を温めんとするは、
先ず自からで「ござる」

 そう言って「喜び面して」(顔面に笑みを浮かべて)、直ちに台所に行き、漬け物桶から二本の「塩漬け大根」を抽き出し、自らこれを井戸水で洗い、それからその二本の丸大根を盆に載せ、飯食い(ご飯)茶碗二個を添えて、奥室に戻り、そしてその丸大根を肴(さかな)にして南州先生とともに茶碗酒を酌み交わしました。

 この様子をそばで見ていた鐵舟の息子、直記は「西郷とはなんだろう?」といぶかしんでいました。一方、隣室に控えていた鐵舟の妻、英子女史は次のようにこの両雄の言動を観察しています。

 二人の様子は、遠慮なく申せば、馬鹿の如くもあれば、また無邪気で幼年の子供のようでもあるし、これらの人物が、維新の際非常に大きな働きをなしたとは、一見嘘のように疑われ、尚また両雄が談話の内に、朝鮮とか、露西亜とか、種々物語られ、その内最も奇妙なのは、次のことです。
 西郷先生が「朝鮮支那は今の機を延ばしてはわるい、拙者が往って一戦争やらねばならぬ」と言ったとき、それに答えて山岡先生がこう言いました。「さようでござる。 兵などは容易に動かすものではない。」
 また、西郷先生が更に申すには、「雉子(きじ)が声を出すから猟師が来る」など、前後理屈の合わないことを語り、次第に熱がこもって、共に呑みつつある。酒徳利を倒して、平気で居りました。

 これを傍聴していた山岡の妻子から、『武士道』の編集者・安部正人が直接聞き取ったのですが、この辻褄の合わない点について、評論を引き受けた勝海舟に解明を求めています。以下は、老爺・海舟の言です。言い方がとても面白いので、ほぼそのままにしてあります。

 翁(海舟)曰く、「御前なかなか大けな問題を「かづけ」て来たよ。おまけに老爺 の評まで加えて、「かつげて」(かついで)帰れるかよ。その話は、五大州の太さと言いたいが、少なく見積もっても、東洋大陸の太さはあるよ。御前の言う英子の話の中に、西郷、山岡の交談中、前後話が理屈に合わぬと云う所、是れ一大事なり。老翁が最好物として評論したい大理屈のある所である。而して前に西郷が、酒徳利を出して「日本の国もまだ寒い、少し熱を掛けましょう」、山岡答えて「お考えの通り、外部を温めんとすれば、先ず自からでござる」と言う事は、一寸片言のようだが、至誠の憂国心が溢れている。尚また達人達観の言である。
 抑も(そもそも)、世人が天下の狂乱を挽回(ばんかい)するとか、政治の改善を図るとか騒ぐ、政治家子供を見よ。外部どころか、手近き己れが先ず治まらん位のものが、何を云うだよ。見よ、西郷、山岡の片言は、座興としても面白いよ、至誠の二字を動かぬ言葉だよ。
 その他御前の質問中に、箕笠で来た、酒徳利が倒れた、丸大根を喰うたなぞは問うに足らん。西郷、山岡の話を英子が一見馬鹿の様でしたと云うのも無理ならぬ。
 見よ、大臣風を吹かせ、政治家の、学者のと云う連中に、西郷や山岡の真意が分かる者が幾人あるか。今の子供等が、馬鹿だの、「おいぼれ」だの云う者は、皆こんなものだよ。

よく考えて見たまえ。山岡英子が、女耳に聞き覚えたる句の中に、西郷の言葉として、

朝鮮支那は今の機を延ばしてはわるい、
拙者が往って一戦争やらねばならぬ

とあるのは、英子が話を中途から聞き込んだのに違いはない。「拙者が往って一戦争やらねばならぬ」というのは、「自分が一大重荷を担って、一掛け合いをやろう」という意味で、その言葉より前に、「戦争なぞとて、兵を動かしては不利益」なることを縷々(るる)説いたに違いない。その証拠は山岡の返事を見よ。

左様で御ざる、兵なぞは容易に動かすものでない。

との答えで、明瞭符箭(ふせん)を合するが如くある。それのみならず、尚また西郷は終(おしまい)の言葉に曰く、

雉子が声を出すから猟師が来る。

と云うのは、「兵なぞを動かして騒ぎ廻れば、国は疲乏(ひぼう)し、 且つ自分の手際を見抜かれてしまい、諸外国はその隙を睨んで来る」という、孫呉(孫子と呉子)の秘法を含みうる句なること、自ずから察せられるではないか。

 見よ、西郷なぞが倉卒浮雲に乗るような(軽薄な)馬鹿者でないことが知れるであろう。それなのに、今尚西郷を「征韓論者」なぞと謂うは、日本の歴史が丸(まる)で虚(うそ)になって、帝国の前途がますます思いやらるるよ。

 真の武士道の活用を知らぬ子供には困るよ。御前(編集者、安部正人)らまだ二十二、三の子供だもの、老爺に第一こんな事を問うのが速いよ。御前もずいぶん太い奴だよ。なには惜き(ともあれ)、道理を克く鍛錬し給えよ。山岡なぞの謂う事を、何にあの天保時代の「たわごと」などど云うようでは、最早だめよ。ものに拘泥せず、活用に注意し給え。

勝海舟は、「西郷は征韓論者に非ず」として、次のように述べています。

征韓論なぞとは馬鹿者の謂う事よ。もし西郷にして征韓の意志がありとせば、時の海軍卿、勝安房守に一言の相談がない筈はない。特に西郷と勝との間は、他の子供の知る處ではない。老爺にも相談しないような、そんな勝の敵でない(狭量な人物ではない)。否、そんな間抜けでないよ、老爺が「征韓の声が子供口(出しゃばりたがり、気が短くて、生意気で、自分から掻き回して、自国を危うくする政治家の口)から伝わってくるから、 どうする積もりか」と尋ねたら、「自分一人で談判に往く積もり」であったと本人の直話(じきわ)であった。老爺も、そうあるべき事で、他に良策は見当たらないと思っていた。
 ところが、側から騒ぎ立てる者たちがいて、切るの、打つのと、言い、唄い出して、征韓征韓と云って、遂に世論を征韓論にして仕舞い、西郷の意志だとて、英傑西郷を、虚しく城山の地下に埋めたは、啼(な)いても涙は出ないよ。

西郷がかつて己れ(海舟)に云った事があるよ。

山岡と云う人は、自分の心中に固(もと)より敵味方の思いはあるまいが、又あれでは敵も味方も始末に困るものだ。あの人が駿府の陣営に、突然飛び込んで来たから、あの敵軍の中を江戸からここまで何(どう) して来たと、尋ねると、矢張り歩んで来たと云うので、それは無論だろうが、敵は見当たらなかったかと、問うと、往々多勢の兵隊の行列などをして、なかなか立派に見えました。と平気なもので、練兵など見た気になって居りました。

あんな命も金も名もいらぬ人間は始末に困る。

ただし、此の始末に困る人ならでは、共に天下の大事を語る訳にもまいりませぬ。

山岡鐵舟

 こう語った西郷さん自身がいかに肝が坐った人であったかを伝えるエピソードを海舟が伝えています。

江戸城引渡の際、朝幕(朝廷と幕府の役人)並んで鵜の目鷹の目で引渡の式をなしつつある処、「おやじ」どの、噸(とん)と平気で隅の方で大眠をして居る。式が終って大久保参政が、西郷さん西郷さん、式が済みまして、皆さんお帰りですと云うや、「おやじめ」目を摺り摺り、ぼつぼつ帰って往ったなぞは、流石(さすが)の参政大久保一翁も舌を巻いていたよ。

先ず今日、歴史に幾多の美談を留め居る眞武士道の精華を探るには、この辺を叩いておけば、たいした違いはないよ。今日の子供(小人物)達が、軽薄で、浮き舟に乗った様に見えるのは、この一点の土台が腹にないからよ。

「修身二十則」(鐵舟が十五歳の時の作)

一、うそいう(嘘云う)べからず候

二、君(主)の御恩は忘る可からず候

三、父母の御恩は忘る可からず候

四、師の御恩 は忘る可からず候

五、人の御恩は忘る可からず候

六、神仏並びに長者を粗末にす可からず候

七、幼者をあなどる可からず候

八、己れに心よりよからざることは他人に求む可からず候

九、腹を立つるは道にあらず候

十、何事も不幸を喜ぶ可からず候

十一、力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候

十二、他をかえりみずして、自分の好き事ばかりす可からず候

十三、食するたびに、かしょく(過食)のかんなん(艱難)を思う可し、
   すべて草木土石にても粗末にす可からず候

十四、殊更に着物をかざり、或はうわべをつくろうものは、
   心ににごり(濁り)あるものと心得可く候

十五、礼儀を乱す可からず候

十六、何時何人に接するも、客人に接する様に心得可く候

十七、己の知らざる事は何人にてもならう可く候
   (誰からでも学び取るようにすること)

十八、名利のために学問技芸す可からず候

十九、人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて(捨て)、
   或はわらう(笑う)可からず候

二十、己れの善行をほこりがお(誇り顔)に人に知らしむ可からず、
   すべて我が心に恥じざるに務む可く候

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