コラム〜読書雑記〜

第3回


今年(1998年)になって『イエスの失われた十七年』(立風書房)という本が出版されました。内容の真偽はともかく、イエスほど重要な人物の32年の生涯(パレスチナでの布教はおよそ30歳から32歳までのわずか2年間)のうち、13歳から29歳までの17年間もの歩みがまったく知られていないというのは、筆者のようにキリスト教の門外漢にも実に奇妙に思えましたので、この本にはとても興味をそそられたのです。


実は以前『楽園の蛇--インド巡礼記』(平河出版社 1984年)という本を紹介したとき、その中に次のような不思議な記述があったのを思い出して、『イエスの失われた十七年』の内容と対比させてみたくなったのです。


キリストの幼年時代と彼のエホバの神殿行についての物語はあるのだが、その青年時代の生活については、事実上何も知られていない。彼が説教をはじめた三十歳まで、彼が何をしていたか、どこで過ごしていたか、誰も知る人はいない。しかし、彼がカシール--すなわちカシミールの元々の地名--にいたとする伝説がある。「カ」は「……と同じ」または「……に等しい」を意味し、「シール」はシリアを意味する。サンスクリットから派生したシャルダ語の写本は、聖書の物語に密接な関係を有していると思われる。このカシミールの伝説によれば、イエスはカシールにやってきて、聖人たちのもとで学び、神秘的な“しるし”を伝授された。……その後、イエスは中東に戻り、それからカシールで学んだ神秘的な真理を、イスラエルの無知な大衆の間で説教しはじめた。かれらを感動させ、改宗させるため、ヨーガの修行によって獲得した霊力をしばしば用い、当時これらの力は奇蹟として注目を集めた。やがてそのうちに彼は磔に処せられたが、彼は十字架上で死んだのではなかった。かわりに彼はエッセネ派の仲間たちによって運び去られ、健康を回復した後カシールに送り戻され、そこで天寿を全うするまで、その師たちとともに暮らしたのである。



今度出た本によれば、イエスは13歳のとき隊商の群れに加わり、インドそしてヒマラヤの山地をめざして東方へ旅立ち、14歳のとき「シンドのこちら側に来て、神の愛された地、アーリア人の間で一人立ちしていた」というのです。やがてバラモン僧らはイエスに「ヴェーダを教え、祈祷によって病人を治すことを教えた。聖典を講じ、解釈することを教え、人の体から悪霊を払い、正気に戻すことを教えた」。いずれにせよ、イエスがインドに来て修行したという点で、二冊の本は軌を一にしています。


『イエスの失われた十七年』の訳者下野博氏は、ルナンの『イエス伝』中にある洗礼者ヨハネ登場のくだりでの「彼は、荒野で、皮の衣……を身にまとい、いなごと野蜜のみを食べ、印度のヨーガの行者のように暮らしていた」という一節に言及して、「荒野」とは、実はインドを表わす暗号だったかもしれないと指摘しています。


これらの話はモーリス・ニコルによる聖書の秘教的解読と関わってきます。ニコルによれば、一般に理解されていないことは「イエスもまた内的成長と進化を遂げなければならなかったということ」です。彼は生まれながらに完全だったのではない。彼が最初から例外的な力を持っていたと考える人々がいるが、もしそうだったら彼は悪魔の誘惑を被らなかったであろう。事実、ある種の病気を治すには自分にはもっと多くの祈りと断食が必要だとイエスは述べている。そうニコルは言います。


続けて彼は次のように言います。


イエスは予言されていた仕事を果たすため、不完全に生まれた。彼は、人類史のある重大な時期に、「天」と「地」と呼ばれている二つのレベル間の結び付きを再確立しなければならなかった。で、これは彼自身の中で実際におこなわれ、彼自身の中の人間的なものと聖なるものとを架橋し、天と地との結び付きを再確立しなければならなかった。彼自身の中の人間的な部分が、より高い、「神聖な」レベルに従うまでの内的進化の困難を味わわなければならなかった。彼は、試行錯誤によってこの進化のすべての段階を経なければならなかったのである。


この間には無数の内的誘惑があったはずであるが、そのごく一部しかわれわれには知られていない。われわれに知られているのは、イエスの初期の頃の若干の詳細と、磔にされるまでのある期間の間の彼の教えだけである。比較的長い、途中の期間のことは何も知られていない。イエスの通過した内的成長の諸段階は、悪魔の誘惑の話におけるような内的自己克服によって説明される。人類が目覚めていない状態にあるのは、悪霊に取りつかれているからだとされている。この悪霊というのは、心理学的に言えば、人間/人類を損なおうとする邪悪な気持ち、衝動、思考のことである。


それらは人間の内部にある。それらは人間の本性、自己愛、エゴイズム、無知、愚かさ、悪意、虚栄心、また感覚からのみ考え、見える世界、人生の外見のみを唯一のリアリティと受け止める性質にある。これらの欠点がまとめて「悪魔」と呼ばれているのである。で、言い換えれば、それはあらゆるものを誤解する大きな力であり、あらゆるものを間違って結び付ける力である。



ニコルは、この問題を具体的に説明するため、あの有名な悪魔の誘惑のくだりを次のように解説しています。


《悪魔の誘惑》


イエスは荒れ野の中を霊によって四十日間引き回され、悪魔から誘惑を受けた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えた。 そこで悪魔はイエスに言った。「もしお前が神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。 そこでイエスは悪魔に答えて言った。「『人はパンのみにて生きるにあらず』と書いてある」。


心理的に、これは何を意味するのか? まず「荒れ野」とは精神の状態、一般的な内的状態のことである。つまり、導く人もなく、馴染んだものもない状態、困惑し、当惑し、途方に暮れた状態。一人きりにされ、どの方向に行くべきかわからず、また自分自身の方向に行ってもならない状態である。彼が飢えていたのは実際のパンにではなく、生きることの「意味」にであった。内的成長を支えるためのパン、内的進化のために必要な「理解」というパンであった。


この場合の誘惑とは、「自分自身でパンを作ること」、すなわち、何かあてにならないようなものを期待するかわりに、自分自身の考え、自分自身の意志に従うことである。これに対するイエスの答えはこうだった。


人はパンのみにて生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。


悪魔は、イエスの状態を楽にさせるために「自分でパンを作って」みろと言った。神の言葉を待たずに。つまり、イエスは彼のより低いレベルで真理と意味を見出すよう促されたのである。が、彼の使命は神の言葉というより高いレベルの真理と意味を理解し、教えることだった。この誘惑の試練とは、彼自身の自己意志と神の意志という二つのレベルのどちらに従うかの問題だった。彼は自分の意志ではなく、神の意志を果たさなければならない運命にあった。彼は自分の中のより低い部分を、より高いまたは神的なレベルの意志に服させなければならなかった。



ニコルによれば、イエスも人間の母親から生まれた以上、当然そのレベルの制約を受けていました。彼の内部には低いレベルと高いレベルが混在していたのです。

《自己愛--権力--暴力性》


さらに言えば、イエスの中には人間の母から引き継いだ「人間的性質」、すなわち自己愛、権力、さらには暴力性が根ざしており、彼の課題はそれを変質させることだったのです。聖書の次の箇所は、この問題と密接に関連しています。


悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての王国を見せた。そして悪魔は言った。「これらの国々のいっさいの権力と繁栄をおまえに与えよう。それは私に任されていて、これと思う者に与えることができるからだ。だから、もし私を拝むなら、そっくりおまえのものになる。



ニコルによれば、これによって悪魔によるイエスの誘惑の目的は鮮明になります。万人の中にある地上での権力欲と深い虚栄心が試されている。この世界とその所有への愛着を含む自己愛の誘惑である。権力(権威)と所有物への愛は、自己愛の二つの側面である。世俗的獲得と所有の力を手に入れられるのだと悪魔にそそのかされているのである。これに対するイエスの答え、それが次の一節なのです。


「汝の神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。


すなわち、世界とその所有物に仕えるのではなく、神に仕えよということである。人間が所有しなければならない「他のもの」がある。それは彼の中にすでにあり、至ることが可能な、より高いレベルであり、その方向に人は向かわなければならない。


しかし、たとえこの方向に向かうことの必要を「知って」も、なお誘惑にかられる可能性がある。人間である以上、感覚の圧倒的影響にさらされるだけでなく、たぶん、世間的な手段と外面的な権力と権威によって、「地上の王」になることによって人類を助けるという気持ちにかられうるのである。使徒たちさえ、イエスは全世界を所有し、地上的報いを与える地上の王となると思っていた。彼らは低いレベルから高いレベルを想像していたのである。



もしイエスが生まれながらに完全だったら、彼は誘惑にかられることはなく、「新しい人間」とそれへの「道」を代表することはなかったであろう。そうニコルは述べています。
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