コラム〜読書雑記〜

第24回 偉人の顔貌について


読書雑記は第23回で近藤富蔵のことをご紹介して以来長らく御無沙汰していましたが、今年も終りに近づき、あわただしくなってきましたので、あえて気持ちを落ち着けるため、何人かの偉人たちの風貌をご紹介したいと思います。


筆者は以前、48歳で自刃した幕末の画家渡辺崋山(わたなべかざん:寛政5年9月16日(1793年10月20日)〜 天保12年10月11日(1841年11月23日))についての研究書『崋山の研究』(菅沼貞三著 座右寶刊行會 1947年)を阿佐谷の古書店で購入し、その中で紹介されている何人かの肖像画に強い感銘を受けました。以下に示すものがそのうちの2作です。


 
左は華山の親友の父親である立原翠軒という老儒者で、菅沼氏は「顔面及び肉身の輪郭は淡墨の細く鋭い描線よりなり、射る如き眼光、隆々たる鼻梁、堅く閉じた脣邊等、意志強き老儒にまのあたり接する感がある」と賛しています。


そして右は「某老武士像」と題されています。よく見ると、左手に握っている巻物の表題が「射法本記」と記されており、「面貌の描写は伝神の妙を得ている」と菅沼氏は賛しています。さらに凹凸の多い老骨の面相をよく現わし、ことに落ち窪んだ目元、堅く締じた口元の描写と、一点を見据えた鋭い眼光とは実に手に入ったものであると評しています。のびのびととした自由な、潤いのある筆法と簡約な描写から推して華山晩年に近い作品だろうと思われるとしています。



 
そして当の人物はおそらく国学者伴信友ではないかと菅沼氏は推定しています。というのは、信友全集第5巻中の「弓矢古筆推考」には、古射学の伝書である「射法本記」についての説が記されており、さらに信友自身が射法を体得していたことも知られているからだと言うのです。いずれにせよ、一芸を極めた人はなんと鋭い眼光を放っているものかと感嘆させられます。


そして崋山自身については、友人の画家椿山による次の肖像が残されています。いかにも廉潔な人柄を偲ばせる風貌です。彼は役人としても優れた資質の持ち主だったようで、最近インターネットで調べたところ、早稲田交渉学会会員・渡辺成一氏が次のような興味深い話を紹介していましたので、参考までにそのまま転載しておきます。現在、政治家や役人の倫理が改めて問われていますが、「公人」とは本来どうあるべきかについて、きわめて意義深い示唆を与えてくれます。

渡辺崋山に学ぶ交渉の心得


今回は 、幕末の偉人渡辺崋山から、交渉に臨むにあたっての心構えを学ぶことにしたい。いうまでもなく、これは、経営トップが企業経営を行うに当たっての心構えにも通じる。


「公」の視点をもつ


渡辺崋山は寛政5年(1793)9月16日、江戸麹町の田原藩(現在、愛知県渥美郡田原町)上屋敷に長子として生まれた。父定通は家老とはいうものの、田原藩は一万二千石の小藩であり、しかも病身。その上、七人の幼い弟と老祖母を抱え、母の手ひとつで貧窮極まる一家を支えていた。崋山は母を助けながら、苦労して儒学、画、漢学などの勉学に励む。そして、蛮社の獄の後自刃するまでに、数多くの優れた画、漢詩、和歌、俳諧、書物を残している。


また崋山は、高野長英、小関三英、江川坦庵らの蘭学者と交流しつつ蘭学を学び、当時の日本人で最も外国の事情に明るい人物の一人でなった。その外国についての多くの情報を背景に国際情勢を論じ、鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていると攘夷の非をとなえ、憂国を訴えたのである。


崋山は、天保3年(1832)家老となった後、海岸防備や内政で数多くの成功(紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件)をおさめているが、そこには民からの感謝のお礼金も受け取らず、民のために使うようはからった崋山の「雪の如き廉潔さ」があった。たとえば藩財政の立て直しをはかるために行った、藩政の抜本的な改革では、人材登用のための格高制を導入している。それまでの給与は、家柄に基づく家禄を主としたものであった。それに対し、職務の分類に基づく職務給を導入したのである。5ヶ年実施されるにとどまったが、近代的な職務給制の創設は画期的な出来事であったといえる。


先にも触れたように、崋山は公人として、真に廉潔な人であった。これも後世に高名を残す事になった大きな理由のひとつと思われる。このことを単純に見倣えというのではない。われわれが崋山から学ぶことは、崋山が常に憂えていた「日本国家」の視点、つまり「公」の視点をもつことが、交渉において武器になるということである。大儀名分である。交渉は、純然たる論理のみが支配する場ではない。


経営にも通じる「八勿の訓」


天保7年(1836)から8年にかけて、田原地方に大飢饉が起こった。病に伏せっていた崋山は方策を藩士に託すが、かねてより崋山がその建設にかかわった飢饉対策の義倉「報民倉」もあって、田原藩は一人の餓死者も出す事もなく乗り切っている。


その時、田原藩の用人で日頃、崋山の信頼の厚い真木重郎兵衛定前が、藩御用金調達の目的で大坂表に滞在し、大坂商人と交渉を行うことになった。それにあたって、華山は真木に書状を送り、その文中で外交交渉における心構えを八つの「してはいけないこと」の心得として説いた。それを「八勿の訓」という。


以下に、その八つの心得を解説することとしたい。


1.面後の情ニ常を忘スル勿レ
(相手と向かい合って面談している時、その時の感情に流されて平常心を忘れてはならない)
交渉における人間関係は、対立的である。したがって、精神の安定を失いがちである。平常心を失うと、物事が見えなくなってしまう。そうなると交渉においてもっとも危険な状態に陥る。つまり、脅しに屈しやすくなってしまうおそれが生じるのである。こうなれば交渉の敗北は必至である。交渉に臨んでは常に平常心を保たねばならない。



2.眼前の繰廻シに百年の計を忘スル勿レ
(今現在のやり繰りにとらわれ長期的な展望を忘れてはならない)
交渉において、短期の計画と長期の計画とのバランスをとることの重要性は、戦争における戦略と戦術の関係同様である。戦術の失敗は、戦略で取り戻せるかもしれないが、その逆は、不可能である。しかも、交渉において「既成事実」は後々までの影響力を持っている。一度の短期計画の誤りが後に影響を及ぼす恐れがある。長期的視点から現在を分析し、戦略と戦術を練らねばならない。



3.前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ
(目前の利益をとろうとして、後にツケが回ってくることを忘れてはならない)
何か結果を得るには、応分のコストがかかるのである。うまい話には裏があると思わねばならない。逆に、自ら進んでコスト(=犠牲)を払うことで、それが交渉力のアップにつながることもある。利益を呼び込むのである。コストに対する能動的な姿勢が時に重要である。



4.大功ハ緩にあり機会ハ急にありといふ事を忘スル勿レ
(大きな成功は、緩やかに成し遂げるものである。しかし、それを手にするためのチャンスは、突然にやってくるということを忘れてはならない)
交渉において、忍耐は重要な要素である。忍耐が成功を生み出すことすらある。しかしいつまでも待っていればいい、ということにはならない。時に臨めば、すばやく行動に移らねばならない。交渉に臨んでは、単なる観察者ではなく、果敢なる行動者たることが望まれる。



5.面ハ冷ナルを欲シ背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ
(顔の表面上は冷めていることを要するが、心の内は暖かであることを要するということをわすれてはならない)
交渉には、冷静な頭脳はもちろん温かい心もまた必要不可欠である。利を求めすぎて冷静が冷酷になってはならないのである。心が感情に動かされず、精神が安定している状態は、ともすれば、相手に冷たい人物である印象を与えかねない。心が温かくなければ、人はついてこない。



6.挙動を慎ミ其恒ヲ見ラルヽ勿レ
(立ち居振舞いを慎みなさい、自分の本心を見透かされてはならない)
交渉において、相手に手の内がバレていたのでは何にもならない。何も馬鹿正直になる必要もない。戦略的に、カードを切るように手の内を明かしていくことも交渉力につながる。しかし、嘘はよくない。交渉とは、単なる騙し合いの場ではない。だが、交渉が情報をいかに探るか、いかに隠すかをめぐる戦いの場であることは間違いない。



7.人を欺かんとスル者ハ人ニ欺ムカル不欺ハ即不欺己といふ事を忘スル勿レ
(他人を騙そうとするものは他人に騙される。欺かないということは、自分を欺かないことであるということを忘れてはならない)
交渉学においても嘘や欺瞞をよしとしない。一度かぎりの交渉相手でもない限り、偽ることのリスクは大きい。交渉においてモラルは必要である。共有できる最低限のモラルすら守られていないならば、交渉それ自体が成立しないからである。自分を欺くことは、結局、人を欺くことである。交渉の基本である自己を偽らないこと、すなわち、自分を信じること、これに優る交渉力はない。



8.基立テ物従フ基ハ心の実といふ事ヲ忘スル勿レ
(基本が立っていれば、あとはみなそれに従う。基本は誠実であるということを忘れてはならない)
基本方針がしっかりと立っていれば、自ずと次に何をすべきかが見えてくる。基本とは、判断の基準である。逆に、基準がなければ、判断はできないということでもある。トップに立つということはその基準を作ることに他ならない。それは、他の者が従うものである以上、作る者に誠実を要求するのである。



◇◇◇


次に紹介するのは明治・大正期の日本の文人画家・儒学者、富岡鉄斎(天保7年12月19日(1837年1月25日)〜大正13年( 1924年12月31日))晩年の写真と、その鉄斎の作「教祖渡海図」です。


 
「鉄斎はゴヤ、セザンヌと共に十九世紀の世界三大画家の一人である。我々が鉄斎を知らなかったのは我々の恥辱である。我々は近代美術史を書き直さねばならぬ」とサン・パウロ・ビエンナーレ展の審査員マリオ・ペドローザは語った、と矢代幸雄氏は『富岡鉄斎』(日本近代絵画全集14)(講談社 1963)の冒頭で紹介しています。


その鉄斎が1921年、86歳の時に描いた「教祖渡海図」は、「釈迦・観音・孔子・老子が達磨の棹さす丸木舟に乗って、衆生済度のため生死の大海を渡る光景」を表わしたものです。達磨が伝えた禅宗はその教えが辛辣なので、室町時代のある書物の中で毒薬にたとえられたのですが、その達磨が船を漕いでいるところにこの絵のユーモラスな味わいがあるとされています。





神官として出発した鉄斎に影響を与えた「石門心学」は、神道を基とし、儒教と仏教を補助として構成された教義で、正直を旨とし、倹約を説くものであり、晩年には神道・儒教・仏教・老荘字思想を渾然一体化したような思想傾向を示したということなので、この「教祖渡海図」はそうした傾向を反映したものなのでしょう。


 
そして最後にご紹介するのは一遍聖人のいくつかの顔貌をまとめたものです。インターネットのWikipeaには次のようにあります。


一遍:延応元年2月15日(1239年3月21日) に生まれ、正応2年8月23日(1289年9月9日)に50歳で没した鎌倉時代中期の僧。時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人、捨聖(すてひじり)と呼ばれる。近代における私諡号は円照大師、1940年に国家より証誠大師号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。


この肖像画集は『日本の美術・第56号』(宮次男編 至る文堂 1971)に収録されたものです。以前、実家の仏壇の下を掃除し、整理していたら出てきたもので、多分祖父母も父母(全員故人)も誰も読んではいなかったようです。人間の顔貌もここまで来ると「魁偉」というか異様というか、とにかく常人離れしていて、実に見事というほかないように思います。
没年は50歳ですが、中には年齢よりずっと老成したものもあります。



以上、年の瀬を前にして、私たちの先人たちの風貌のいくつかを、若干のコメントを添えてご紹介いたしました。参考になれば幸いです。
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