コラム〜編集日記〜

第5回


このたび『〈ワン・テイスト〉──ケン・ウィルバーの日記・下』(青木聡訳)を刊行いたしましたので、お知らせいたします。下巻には1997年8月から12月分を収録してあり、これでほぼ600ページにわたる長い日記が完結したことになります。


それにしてもウィルバーの本は長い!最近彼のホームページを覗いたら、昨年9月の同時多発テロにちなんだ300ページの「長篇小説」を書いたとのことで、その梗概が掲載されていました。とてもおもしろそうな内容ですが、実は彼のコメントによると、この小説にはさらに300ページの「解説」ないし「注解」が付くというのです!邦訳すれば全部でおそらく1500ページぐらいになるのではないでしょうか。やはり「ワラジ大」のステーキをぺロリと平らげる国民だけのことはあると、今さらのようにエネルギーの違いに驚かされます。


この日記全体を通して彼は一貫して人間の成長発達論を展開していますが、その骨子は次のQ&Aをお読みいただければ、ある程度おわかりいただけると思います。



質問:ナチスやKKKはここ(人間の発達段階)にどのように収まりますか?


ケン・ウィルバー:ナチスやKKKも人間の発達のホラーキーの一部です。しかし、彼らは低次のレベルにおける著しく病理的なヴァージョンです。もちろん、彼らも「すべての一部」ですが、「すべて」の階層において非常に低次のレベルの位置を占めています。そして、彼らは〈コスモス〉に対して、より高次の、そしてより深い道徳的な応答をすることを怠けているのです。


質問:彼らがそれほど悪いならば、なぜ彼らは存在するのでしょうか?彼らはあらゆるホラーキーにおいてどのような部分を担っているのでしょうか?


ケン・ウィルバー:誰もがそうした低次の、そして初期の段階のいろんなヴァージョンを通り抜けていきます――彼らは、いわば道徳的な発達における原子と分子であり、その上に高次の細胞や有機体が組み立てられます。ナチスやKKKは抑止された発達の悪例と言えるでしょう。彼らは全体性における低次のレベルに位置します。道徳的なホラーキー、あるいは道徳的な発達の順序――それは前慣習的そして自我中心的から、慣習的そして自民族中心的へ、脱慣習的そして世界中心的へ、脱─脱慣習的そして霊的へと移行する―─があるのです。KKKやナチスは自民族中心的な段階において抑止された発達の歪んだ例です。彼らの人種、彼らのグループ、彼らの宗教、彼らの仲間は、虐殺に値する他のすべてより優れているとされます。KKKやナチスは〈生命の織物〉の一部です。それは間違いありません。しかし、私たちはその部分に抵抗しなければなりません。なぜなら、それは全体性における低次の位置にあり、それゆえより道徳的ではないからです。



私たちはすべて、もし「正常に」発達するならば、前慣習的そして自我中心的から、慣習的そして自民族中心的へ、脱慣習的そして世界中心的へ、脱─脱慣習的そして霊的(スピリチュアル)へと移行する、というのです。これは彼が一貫して主張してきた「前個」──「個」──「超個」あるいは「前合理」──「合理」──「超合理」への発達と対応しています。しかしながらこの発達にはしばしば「退行」が見られ、これが問題をややこしくする、というわけです。これはさらに「異常」──「正常」──「超正常」にも関連しています。これに関しては、編者は以前小社から出した『カミング・ホーム』(レックス・ヒクソン著)に添えた「文献に関する補記」の中で、次のような議論を紹介しておきましたので、ちょっと引用しておきます。これはヤンコ・ラヴリン著『超人の悲劇──ドストイエフスキイの生涯と芸術』という、1940年に邦訳出版された優れたドストエフスキー入門書に出ていたものに編者のコメントを交えたものです。


……ここでキリストが登場する。「神の王国は汝らの内に在り」と彼が言った時、彼は魔術的な神の概念を神秘的な概念に置き換え、最大の価値転換を行ったのであり、これによって彼は神を外から内へ──まさに人間の意識の中へ──移し、そして旧約のエホバの奴隷を神の子に変えたのである。このような態度は、普遍我の方向への自我の発展を示唆し、しかもそれは個性を宇宙的全体に融合させることによってではなく、後者を人間の意識に包摂することによってであった。みずからその個人意識を「天に在ますわれらの父の完全なるがごとく完全」であるような水準にまで高めることによって、キリストはその使命を具現したのである。


ここで注意すべきは、人間の意識の内にある神秘的な要素に刺激を与えるにあたって、キリストはその中にある魔術的要素を打ち壊しはせず、むしろそれを反動により大きな活動に呼び覚ますようにした、ということである。かくして人間の魂ははっきり、神秘的なものと魔術的なものという二つの構成部分とに分裂し、それに応じて人間の意識のきわめて重要な区別が生じる。すなわち、魔術的要素の非意識的領域に相当するものとしての「下意識」と、神秘的要素の非意識的領域としての「超意識」とにである。この下意識と超意識は、無意識(Unconscious)の二元性を形成する二つの相反する因子と規定しうる。ドストエフスキーの作中人物たちの内面は、ちょうど川水と海水がぶつかりあう場所が複雑な様相を呈するように、この相反する二因子のダイナミックなせめぎ合いが展開する場となる。


この「下意識」と「超意識」の区別は、「常態的(normal)」をはさんでの「変態的(abnormal)」と「超常態的(supernormal)」の区別に対応している。が、我々は既成の心理・生理学の規準を超えるものはすべて病理学的疾患であって、それはノーマルな健全なものに変えられねばならないものとみなし、常態と病態との間にはっきりした線を引こうとするそうした試みが、往々にしてまったく間違った帰結に達するものだということを忘れている。どこで常態が終って、どこで変態が始まるかを決定することは困難である。それだけではなく、初め一見したところでは精神病性の心的欠陥だと思われるものが、究極においては人間の意識の超常態的(非凡)な現れであり、それ以上の成長と進化とへの手がかりとなるような場合もありうるのである。人間の意識の境界的/超越的領域についての本格的研究は、1960年頃からのトランスパーソナル心理学の登場を待たなければならないが、ドストエフスキーはそれよりはるか以前に先駆的な探求をしていたのである。


なお参考までに、意識(特に「変性意識」)の科学的研究で知られ、優れたトランスパーソナル心理学者でもあるチャールズ・タートが、一九八六年に出版された『覚醒のメカニズム』(吉田豊訳コスモス・ライブラリー 2001)中で「実存的神経症」に言及している箇所を紹介しておきたい。


サイコセラピストたちは、通常の神経症患者──通常の発達課題のすべてを習得しなかったために幸福ではなかった人々──を治療することが常であった。彼らは「正常」になり、正常な人々のように適応し、人生を楽しめるようになりたかったのである。それから、新種の患者──社会的な基準では成功しているのだが、しかしなお満足していない人々──が出現し始めた。典型的な不満はこんなふうかもしれない。「私は自分が働いている会社の副社長をしており、いつか社長になるかもしれません。お金はかなり稼いでいます。地元で尊敬されています。幸せな結婚生活を送っており、可愛い子どもたちがいます。家族で、年に二回、素晴らしい長期休暇を取ります。けれども私の人生は虚しい。何かこれ以上のものはないのでしょうか?」


セラピストたちは、そのような患者たちが、どのように暮らしたらいいかよりはむしろ人生の究極的な意味についての疑問と格闘していることを示すために、彼らのことを「実存的神経症患者」と呼んだ。しかし、この用語は、いかにセラピストたち自身が依然としてわれわれの文化の思い違いにとらわれているかを示した。通常の生活は充分ではないと感じることがなぜ「神経症的」だったのだろうか?今、われわれは、成功した不満家が不幸だったのは、彼らの精神的・霊的生活が空虚だったからだ、と認識できる。合意的トランスは、実は、生まれつき目覚める能力を持っている存在にとっては充分なものではないのだ。「実存的神経症」は、実際は、潜在的成長の健全な徴候なのである。


確かに、副社長という、「文明」の推進に先頭を切って邁進していた人が、突然「人生の意味」という「文化的」問いを発するというのは、個人史においては一大危機かもしれないが、しかしそれは「より高い意識」に向かっての第一歩かもしれないのである。


この「変態的」と「超常態的」意識は、「常態」の見地からすればどちらも共に「病的」であるが、にもかかわらず両者の方向はまったく逆である。前者が堕落、退化に向かうのに反し、後者は人間精神のより広範な生産面に展開し、「より高い真理」に通ずる。「異常と非凡とを混同することによってのみ、ロンブロゾーがやったように天才を狂人や罪人と同じ部類に入れ、そして粗大な神経組織と限られた精神とを持つ平均的常態の類型を理想として認容することができるのである。」ここから浮上してくるきわめて重要なポイントは、いわゆる「常態」がかならずしも「正常」で、唯一絶対の規準ではないということである。


以上、私たちが「個」「合理」「意識」のレベルに立って、自分を「正常」とみなし、その段階に満足しているかぎり、より高い発達への展望を見失ってしまうということがおわかりいただけるかと思います。ウィルバーの洞察はこのより高いレベル(トランスパーソナル=超個)への発達のための手がかりをふんだんに与えてくれますので、もしそうしたことに関心のある方は今回刊行された『〈ワン・テイスト〉──ケン・ウィルバーの日記・下』を『上』と併せてぜひお読みになるよう、お薦めいたします。
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