コラム〜編集日記〜

第6回


前回ウィルバーの発達論を中心に関連資料を併せてご紹介しましたが、これは最近の日中摩擦問題にも密接に関連していますので、及ばずながら補足的にお話しさせていただきます。「前慣習的そして自我中心的から、慣習的そして自民族中心的へ、脱慣習的そして世界中心的へ、脱─脱慣習的そして霊的(スピリチュアル)レベル/段階」へと移行するというと、いかにも図式的ですんなりいきそうですが、実は私たちのほとんどは自民族ないし自国家中心的段階に強く固着しており、根源的に世界中心的レベルに発達することは大変困難なのです。というか、第2次大戦後、私たちはあまりにも歴史的経緯をうやむやにしたまま過ごしてきたため、とりわけ対アジアのスタンスについて、内面的にきわめて不確かで、それが特に中国との関係で摩擦を生む背景をなしているのではないでしょうか?このあたりをしっかり踏まえずに「世界中心的」スタンスを口すれば、それは空疎なものに終わらざるをえないのであり、ですからこの点は編者自身も大いに自戒をこめて述べています。


これに関して、その欠落を多少なりとも埋めるべく、最近『日本とアジア』(竹内好著、筑摩書房、1966)にざっと目を通してみました。これは「竹内好評論集」の第3巻をなすものですが、まさに「目からうろこが落ちる」思いでした。430ページもある本なので、もちろん簡単には紹介できませんが、少なくとも最近の日中関係を理解する上で大いに参考になる箇所が随所にありますので、そのほんの一部をお伝えしておきたいと思います。


話はそもそも明治時代以来の日本の歩み、とりわけアジア・アフリカなどをすさまじい勢いで植民地化しつつあった「欧米列強」の攻勢を前にして、日本がどのように立ち向かうべきかという、国家の存亡に関わる事態にからんでいます。この場合、アジア諸国と手を組んで欧米に立ち向かう(興亜)か、それともアジアと手を組まず(脱亜)、欧米列強の歩んだ道に追随するかといった、すさまじい選択を強いられていた時代状況を踏まえなければならないのです。そして結果的に軍国日本が選んだ歩みはアジアに多大の迷惑をかけるものとなったわけです。


これを端的に教えてくれるのが「日本人の中国観」というエッセイです。それによると1948年、台湾の国民政府の前行政院長である張群が日本を視察し、帰国に際して「日本の皆さんへ」というメッセージを残した。その冒頭で張群は「日本の平和民主主義が一応の形を整えた」ことを認めながら、しかし「率直に言って」まだ十分でないこと、「有形の制度と法規の改革はたやすいが、無形の心理と思想の改革こそ困難」なことを指摘し、「したがって、私は日本国民に対し、思想革命と心理革命とを徹底的に実行するよう切望」している。「この2つは、平和民主日本を保証するだけでなく、日本と他の民主国家とが合理的な関係を再建するのに必要な保証にもなるのである。」そして竹内好は張群が「思想革命と心理再建」の必要を説いているのを、「私は、日本文化の根本にふれた批評だと思い、かつ、これこそ中国国民の総意であると感じた」と述べています。ポイントは、かつての軍国日本を支え、日本を野蛮なアジア侵略へと駆り立てた根本にある思想と心理の徹底的反省の上に立って、思想と心理の変革へまで徹底化されないかぎり「日本の民主化」は信じがたいという、中国国民の根深い「不信感」です。


日本共産党さえもが、張群の発言はあくまでも「国民党の高官」の発言であり、中国の世論ではないと決めてかかり、張群の発言の背後にある国民感情をつかみそこなったとし、対中国認識の点に関するかぎり、日本共産党のそれも日本的なゆがみを免れていないと竹内好は指摘しています。そして「割り切って言えば、日本人の対中国認識は、戦前と戦後とで変っていない。これは、日本人の思想なり心理なりが全体として戦前と戦後とで変っていないことのあらわれである。したがって、張群の批判に含まれているような、中国民衆の日本への不信の感情も出てくるのである」とし、さらに、注目すべきこととして、次のよう話に言及しています。


たとえば、張群の来訪より少しあとで、近藤鶴代という人が外務政務次官に就任した。その就任後に新聞記者に与えた談話で、日本と中国は今後文化的な関係を深めなければならぬが、それには以前にあった対支文化事業部のようなものを復活するのも一案だと思う、と述べている。私は、もし張群がこの談話記事を見たら、かれは日本人の不感症に絶望して、なまじっか忠告などしたことを後悔したろうと思う。文化の名において日本の侵略の手先をつとめた対支文化事業部と、そのスローガンである「日支親善」を、中国人がどんなに骨に徹して憎んだかということを、近藤という婦人が偶然知らなかったことは、不幸にはちがいないが、そのために国民感情の無邪気な代弁者である一人の女性だけを責めるわけにはいかぬのである。


それは反動政党の政治家だからそうなるのだ、と急進主義者はいうだろうが、私はそうは思わない、対支文化事業部を中国人が憎み、その憎む感情が日本人には伝わらなかったという、国民感情の基盤における歴史的な食いちがいは、そのまま今日につづいており、今日でもその食いちがいが自覚されておらず、したがって、それを除く努力は、相対的にいってどの方向からもまだはじまっていないのである。対支文化事業部が象徴するものは、過去の軍官僚支配の機構だけでなく、その機構を支えていた、したがってもしそれが除かれないならば再び対支文化事業部をうみだすであろう広い基盤を含むのである、なるほど、共産主義は近藤鶴代を否定するだろう。しかし、その否定が、国民心理の変革という方向に深められていないかぎり、中国人の不安の念を除くことはできない。そして日本では、あらゆる運動が、共産主義を含めて、そのように内攻しないのが普通である。これは中国の場合とは、運動の方向が逆である。


共産主義者を含めた日本の学者たちは、近藤鶴代の出てくる地盤にのっかって中国を見ている。つまり、かれらの中国観は、戦前も戦後も根本的な変化がない。その地盤とは何か。一口にいえば、日本人の中国にたいする侮蔑感である。あらゆる中国観の根底に、意識するとせぬとにかかわらず、それがある。張群の直言の根底をなしている中国人の日本にたいする恐怖、あるいは嫌悪の感情は、この侮蔑感を直感的に見抜いているともいえるだろう。


この侮蔑感は、むろん、歴史的に形成されたものだ。具体的には、日清戦争後の産物である、そしてそれは、日清戦争前の(中国への)畏怖感を裏がえしにしたものである。だから、この両者は、あらゆる場所で、一方から他方へ容易に移るし、また混在することもできる。……現在の中共の勝利にたいする見方にも、それに似たものがある、日本へ輸入されたマルクス主義は、日本人の対中国認識に関するかぎり、このような侮蔑感を固定する働きをした。なぜならば、それは生産力という単一な物質で歴史を割り切ることで価値を量る決定論として受け入れられたから。学者たちは、中国がいかに日本より近代化に立ちおくれているかを「科学的に」立証した。つまり、素朴侮蔑感にたいして科学的侮蔑感ともいうべきものを確立した。このマルクス主義によって武装された中国観が、客観的に見れば、日本の侵略を理論的側面から助けたことは、否定されない。今日、中国の民衆が、共産主義者を含めての日本人全体に不信を抱くのも、理由のないことではない。もし毛沢東が日本を視察にきたら、かれは日本の共産主義者にも「思想革命」を勧告するだろうと私は思う。


このエッセイは1949年、つまり今から53年前に書かれたものですが、最近の日中関係と照らし合わせて皆さんはどう感じられますか?こうした日中関係の経緯を踏まえて(ここではほんの一部を紹介したにすぎません)、最近の教科書問題や、小泉首相の靖国参拝問題、あるいはそれ以前にしばしばなされた政治家の「不用意発言」などを思い出すと、問題の根っこは依然として残っており、それに対して中国人たちがいかに日本人全体に対して恐怖をいだき続けてきたか、あるいは無気味な思いをしてきたか、少なくともその一端はおわかりになるのではないでしょうか。もちろん中国にもチベット問題とか人権問題などがありますが、それを盾にとって中国人の非をあげつらい、過去のことをあいまいにしてはならないと思います。


というわけで、日中関係を中心にした「日本とアジア」の問題は、このコラムで新刊紹介の合間を縫って随時取り上げ続けたいとおもいます。なぜなら、クリシュナムルティが言うように、人間を結びつけるものは「事実」であり、それに対して「意見」はわれわれを離反させるからであり、過去に何があったのかを、それがいやなこと、あるいはわれわれにとって不都合なことであっても、目をそむけずにしっかりと見つめ直すことは、結局は私たちの精神/心を鍛えるだけでなく、ひいては真に平和的な関係構築に向けての第一歩をなすと思うからです。
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