第7回
このたび P.D.ウスペンスキー著/高橋弘泰訳
『新しい宇宙像・上巻』(本体2400円+税/446頁)を刊行いたしましたので、ご紹介がてら感想を述べさせていただきます。
『ターシャム・オルガヌム』(小社刊)で新しい思考原理を提示した著者が、まったく新しい角度から人類の問題に挑んだ大著の完訳です(以前、工作舎から『超宇宙論』として部分訳が出され、現在も版を重ね続けています)。
上下各約450ページもあり、まさに秘教的洞察の宝庫の観を呈している本書は、秘教的真理を求める多くの人々にとっての霊感の源であり続けてきました。
参考までに目次の概要を紹介しておきます。特に「キリスト教と新約聖書」をお読みになると、秘教的に解読されたものとしての聖書がいかに面白いものかおわかりになるでしょう。そしてウスペンスキーが単なる知的探究心にではなく、いかに激しい真理発見への熱情に駆られていたかも、あわせておわかりになると思います。
〈『上巻』の内容〉
第1章 秘教と現代思想
第2章 四次元
第3章 超人
第4章 キリスト教と新約聖書
第5章 タロットの象徴主義
第6章 ヨガとは何か?──東洋の神秘
(以下『下巻』)
第7章 夢と催眠術の研究について
第8章 実験的神秘主義
第9章 奇蹟を求めて──小品集
第10章 新しい宇宙像
第11章 永劫回帰とマヌ法典
第12章 セックスと進化
「秘教」という言葉になじみのない方のために、
『グルジェフとクリシュナムルティ──エソテリック心理学入門』(小社刊)から、冒頭の次の箇所を引用しておきます。
世界史全体を通じて、宗教は常にそのエクソテリック(外面的、公教的)な側面とエソテリック(神秘的、秘教的)な側面を持ってきた。古代エジプト、インド、中国、ギリシャ、ユダヤ、ペルシャ、アラビア等々の宗教はすべて、この双子(ツイン)的伝統に適合している。なぜなら、人間精神の要求上、一方には大衆向けの種類の宗教があり、他方にはより秘教的な種類の宗教──その真価を認め、理解する内面的な力を備えた人々向けのもの──があるべきだからである。
一般に知られている古代のすべての宗教の内奥の教えが……本質的に同じだというのは、偶然によるものではない。古代宗教に見出される〈宇宙〉と〈人間〉についての内的真理は、ヒンドゥー教……仏教、道教……そしてもちろんキリスト教に見出されるものに近似している。キリスト教の秘教的な部分は公教的な側面からだいたい引き離されてきたが、しかし福音書中には無傷で残っている──見る目と聞く耳を持ったすべての人にとって。そしてグルジェフが、彼が教えた内面的発達のシステムは秘教的キリスト教と呼びうるものだと言うのを常としたというのは事実である。
……
多くの人が神秘的教義派(ミステリー・スクール)……のことを聞いたことがある。(汝自信を知れという)銘を刻まれたデルフォイの神殿は、その防護された境内で神秘的教義(人間の本性についての内面的悟り)を伝え、これまた神秘的教義に起源を持つ古代ギリシャ劇を演じた。初心者への教えの一部として寺院内でおこなわれた劇はもっぱら同じテーマに関わっていた。外面的、すなわちエクソテリックには、ギリシャ悲劇はギリシャ宗教の古い伝説や神話を悲劇の形で演じる。が、内面的、すなわちエソテリックには、実は人間の魂の内側で進行している苦闘を描いているのである。魂のなかで、また魂によって、人間はしだいに自分自身についての真の理解に至り、ついには人類の目と心をベールでおおい、かれらを慣習的な生活の形成に資する愚行と空虚から離れられなくしている暗黒からの真の解放を成し遂げるのである。それは、古代ギリシャの時代においても、現代ヨーロッパ、アメリカ等々において今そうであるのと本質的に同じだったのである。
秘教の探究はいわば「真の自己発見」と「内面的発達」への道であり、ウスペンスキーはグルジェフの弟子というよりはむしろ独自の思想家として、その道を極限までたどった先駆的開拓者の一人と言いうるでしょう。しかしここでは、秘教的聖書解読の一例をご紹介するに留めたいと思います。これは、有名なバベルの塔の物語に関するものです。と言うのは、この塔の物語についてのウスペンスキーの解読は、昨年の同時多発テロで巨大ビルが崩壊した時の光景と無気味に重なってくるからです。
個人生活と社会生活の進化という考え方、秘教のアイデア、文化と文明の誕生と成長、上昇と下降の時代に関係した個人の可能性――これらすべてのこと、さらに他の多くのことが三つの聖書の物語に表現されている。
これら三つの神話は聖書の中ではつながっておらず、別々のものとされているが、実際には同じ考え方を表現しており、互いに補い合う関係にある。
最初の神話は大洪水とノアの箱船の物語である。二番目はバベルの塔、その破壊と言語の混乱の物語であり、三番目はソドムとゴモラの破壊の物語、アブラハムがビジョンを得て、一〇人の義人がいれば神はその都市を破壊しないと言ったのだが、結局見つからなかったという話である。
……
バベルの塔は文明の象徴である。人間は「その頂上が天まで届く」石の塔を建設すること、つまり地上に理想郷を築くことを夢見る。彼らは知的な手段、技術的な手法、公式な制度を信じる。長い間塔は地上から上へ上へと伸びていった。しかし、人々がお互いを理解できなくなる瞬間、あるいはこれまで決してお互いを理解していなかったことに気づく瞬間が必ず訪れる。各人は各々のやり方で理想を思い描いている。各人が自分の理想を実行したいと思う。各人が自分の理想を成就することを欲する。このとき言語の混乱が始まる。人々は最も簡単なことについてすらお互いに理解できなくなる。理解の欠如が不調和、敵意、闘争を呼び起こす。塔の建設を開始した人々はお互いを殺し始め、作ったものを壊し始める。塔は廃墟と化す。
全人類の生活、民族や国家の生活、そして個人の生活にもまったく同じことが起こる。各人が自分の人生にバベルの塔を建てる。彼の奮闘、人生の目的、達成したこと、これらは彼のバベルの塔である。
しかし塔が崩れ落ちるときが必ずやってくる。ほんの少しの衝撃、不運な事故、病気、ちょっとした計算違い。そして彼の塔は跡形も残さなくなる。人はそれを知るが、修正したり変更したりするにはもう遅すぎる。
または、塔を建てている間に、人間の人格の「異なった〈私〉」がお互いへの信頼を失い、あらゆる目的や欲望の矛盾を知り、共通の目的など存在しないことを知り、お互いを理解することを止めるときが来るかもしれない。正確に言えば、お互いに理解していると考えることを止めるのである。すると塔は崩壊し、幻の目的は消え去り、彼が行ってきたことはみな不毛で、どこにも導かない、また導き得ないと感じる。彼の前にはただ一つの事実――死のみがある。
人間の全生活、富、権力、知識の集積は、バベルの塔の建設である。なぜならそれは必ず崩壊、つまり死を迎えなければならないからである。新しい存在領域に持って行くことのできないものすべてには、死という運命が待ち受けている。