コラム〜編集日記〜

第16回


『天才論』のことなど


ご無沙汰しております。「光陰矢のごとし」と言いますが、ある年齢以降の方々はほとんど例外なく月日の経つのが速くなると感じるようです。読者の皆様はいかがでしょうか?


編者の場合、とりわけ出版物の刊行以外に、英文月刊誌の翻訳制作のお手伝いをしているため、1年があっという間に経つように感じます。そのため、年に1度暮れにクリシュナムルティ関係の方々の忘年会に招かれるのですが、それがあっという間に来るように感じられます。そんなわけで、柄にもなく毎日を大事に過ごすことの必要を痛感するようになりました。


今年になっていささか嬉しかったことは、『フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本−−クライエント中心療法を本当に役立てるために』(東京女子大学助教授 近田輝行著)と、『カール・ロジャーズ』(ブライアン・ソ−ン著/上嶋洋一ほか訳/諸富祥彦監訳)が、2月と5月に続けて「日本図書館協会選定図書」に選ばれたことです(『週間読書人』に掲載された「週報」による)。まだ駆け出しのような小出版社として、多少なりとも出版文化に寄与したことを認めていただいたことは、大いに励みになりました。


最近、ユング派心理療法家トマス・ムーアの「序文」が付いた『ヨブ記』を刊行いたしました。聖書中のこのような大昔の物語を「今なぜ?」と思われるかもしれませんが、それはムーアの「序文」と、心理占星術研究家として名高い鏡リュウジさんの「解説」を読んでいただければおわかりいただけると思います。「なぜ自分がこんなめにあわなければならないのだろう?」という疑問を抱いている人は、すで大昔のヨブと似た心境にあるのです。リストラ、病気、事故、身内の不幸……ヨブと同じように「なぜ」と問いたい人々は、昔よりもずっと増えているのではないでしょうか。


なお、近々、心身一体療法研究所所長 本宮輝薫著『真気の入れ方と邪気の抜き方』を刊行する予定です。これは各種治療に携わり、種々の「邪気」を受けやすい方々にとってきわめて貴重な予防措置を含め、具体的なアイディアが満載の内容となっています。また、『四つの約束』の著者ドン・ミゲル・ルイスの最新作『祈り』も予定しておりますのでよろしくお願いします。


ところで、新しい本を出し続けているくせに、と言われるかもしれませんが、編者は実は古い本になぜか惹かれます。やはり時の試練を経て残っているもの−−古典−−は読みごたえがあります。それは「スルメ」のようなもので、噛めば噛む程味が出てくるのだと思います。ですから、よく阿佐ヶ谷や高円寺界隈の古書店にぶらりと出かけて、古めかしい本を手にとって眺めています。ごく最近そんな古書で、実に面白い本を入手しましたので、参考までにちょっと御紹介させていただきます。


それは、チェザレ・ロンブロゾー著/辻潤訳『天才論』(改造社出版)という文庫本です。昭和5年(1930年)に初版が出された本ですが、編者が入手したのは昭和13年に出た第22版です。これから見ても、当時大いにもてはやされた本であることがわかります(なお、訳者の辻潤という人は虚無主義者として知られた人で、今でも著書や伝記が若干ながら出ています)。


著者ロンブロゾーは1836年にイタリアのヴェロナ(またはチュリン)で生まれ、長じて精神病学・法医学者となり、教職に任じたり精神病院長を務めたりしながら、天才と精神病の関係を研究し、「犯罪人類学」という一学科を創立しています。500ページ余りある本書の内容は次のようなものです。「第1篇 天才の特徴」「第2篇 天才の起因」「第3篇 狂天才」「第4篇 綜合・天才の変質的心徴」から成り、主に西洋の様々な天才たちのことを縦横に論じています。


なにぶん大著ですので、まだほんの一部を読んだだけですが、刊行当時大きな話題になったのではないかと推察されます。今さらこんな本を読んでどうするのだと思われる方もいるかもしれませんが、現在のように人間が画一化・均一化・均質化し、面白みのない存在になり下がっている時にこそ、人間というのは本当はきわめて興味深い、謎めいた、神秘的な、あるいは気狂いじみた存在なのだということを再認識するきっかけを与えてくれるという意味で、貴重だと思うのです(以下、引用文は現代仮名遣いに改めてあります)。


さらに、私たちがいるとされる「常態的(ノーマル)」領域をはさんでの「変態的(アブノーマル)」と超状態的(スーパーノーマル)」領域についての洞察を得るための参考にもなります。私たちがいることになっている「ノーマル」な領域はもはや安全ではなく、むしろ限りなく「アブノーマル」な領域に侵食されつつあり、きわめて危険になりつつあるのではないでしょうか。トランスパーソナル心理学がめざしているような「スーパーノーマル」な領域への移行/飛躍が、急務となっているように感じられます。クリシュナムルティが「現代社会の心理構造から飛び出す」ことの必要を力説し続けたのもそのためです。


この点に関しては、「異常と非凡とを混同することによってのみ、ロンブロゾーがやったように天才を狂人を同じ部類に入れ、そして粗大な神経組織と限られた精神とを持つ平均的常態の類型を理想として認容することができるのである」と『超人の悲劇』というドストエフスキー論の中で著者ヤンコ・ラブリンが指摘しているとおり、『天才論』は十分に注意して読む必要のある本であることも確かだということを補足しておく必要があるでしょう。


さて、冒頭で著者は執筆動機に関わると思われる次のような言葉を引用しています。「精神錯乱は決して疾病ではない。かえってこれは、時に神から授かるはなはだ大なる恩恵である。デルフォイおよびドドナの女預言者等は精神錯乱の際、ギリシャ国民のためにはなはだ多くの功績を立てた。ただし彼らは冷やかである時にはあまり役に立つ人間ではなかった。否、むしろ何の役にも立たぬ人間であったのである。神々が人間に禍いなる疾病を下した時、聖なる精神錯乱がある人間に起こって、人々の不幸を救うべき方策を授けてくれた。また詩神が吹き込む一種の精神錯乱が起こる時に、純なる精神が興奮して英雄神の事蹟を謡い、未来の人々のために教訓を残していく」(プラトン)。さらに、デモクリトスは「よき詩人で精神の狂っていなかった者は一人のないと信じていた」というのです。


さらに著者は「パスカルは極端な智力は極端な狂とはなはだ似ていると言った。そして自分自らその実例を示した」と述べ、ディドロオの次の言葉を引用しています。


「これらの陰気な憂鬱な気性を持った人々は折々異常なほとんど神のごとく鋭い透察を持ち、これによってはなはだしく狂的なまた時としてはなはだ崇高な考えに達したのであるが、どこからこの透察を得たかというと、周期的に起こる有機体の擾乱(じょうらん)から得たのだと私は思う。当人自らは霊感を受けたものと信じていた。しかし実は発狂していたのである。彼らの病気の前には一種獣的な感情脱失の状態が起こる。彼らはこの状態を堕落せる人間の状態であると考えた。そのうちに擾乱が起こってきて、この感情脱失の状態から起き上がってくる。この時来ってその人々を動かすものは神の力である、と彼らは考えた……ああ! 天才と狂とはこれほどまでに近いのである。生まれつき善性あるいは悪性を有する人は多少皆かかる徴候を持っているのである。彼らは度数の多少、程度の差異はあるが、いずれもかかる徴候を示しているのである。そして世間の人々はこれらの人々を獄に投じ、鎖につなぎ、あるいは像を立てて賞め讃えるのである。」


さらに「アルゼンチン史上に現われた偉人の神経病」というラモス・メジアという研究者の論文(1885年)には、「南米共和国の大人物のほとんどすべてが飲酒家であり、神経病者であり、あるいは精神病者であったこと」が示されているというのです!


本書はまず天才の特徴を挙げていますので、その主なものをまずご紹介したいと思います。まず、外面的に天才は威風堂々としているのではないかといった想像に反して、彼らの多くは「身体が矮小」であったということです。例えば、私たちがよく知っている天才のうち、古代ではアレキサンダー(大アレキサンダーは丈では小アレキサンダーであった)、アリストテレス、プラトン、エピキュロス、アッチラなど。近代ではエラスムス、ギボン、スピノザ、モーツァルト、ベートーベン、ハイネ、バルザック、ウイリアム・ブレイク(150cmあるかないかであった)、イプセン、メンデルスゾーンなど、枚挙に暇がないほどです。例外的に身長の高い天才としては、ゲーテ、シラー、ビスマルク、ミラボー、ショーペンハウエル、ヴォルテール、ピーター大帝、ワシントン、フローベル、カーライル、ツルゲーネフ、テニスン、ホイットマンなどわずかしかいないそうです。


さらに天才の外面的特徴として「佝儡(せむし/くる病)」(バイロン、モーゼ、メンデルスゾーン、キルケゴールなど)を挙げています。また、昔から天才の色として呼ばれている「蒼白」と、痩削(そうさく=痩せこけていること)。ミルトン、パスカル、ナポレオンなどはいずれも壮年時代に痩せこけていた。人相としては、クレチン病(小人症と精神薄を特徴とする)者のような人相をしていた天才がかなりいる(ソクラテス、レンブラント、ドストエフスキー、ダーウィンなど)。「左手利き」(ミケランジェロなど)。


「無子孫」−天才には独身で終った人が多い。結婚した人でも子供のないのが多い。「最も高尚な仕事は小児のない人間から生じてきた、彼らはその身体の姿を後世に伝えることができなかったかわりに、心の姿を顕わそうと努めた。かくのごとくして後世子孫のためになるような仕事が子孫を持たない人々から最も多く生み出された」(ベーコン)。「これらの人々は祖先をも子孫をも持たないのである。彼ら自らが子孫の全体となっているのである」(ラ・ブリュエール)。ミルトン、スイフトなど多くの天才は研究に捧げる時間を得るために結婚を排した。「私は私の芸術中に妻以上のものを持っている」(ミケランジェロ)。カント、ニュートン、ガリレオ、デカルト、ダヴィンチ、コペルニクス、ライプニッツ、ショーペンハウエル、ヴォルテールなど、独身で終わった天才は多数いる。使徒パウロは絶対的独身を誇った。女性天才ではナイチンゲールなど、けっこういる。


結婚しても幸福でなかった人もかなり多い(シェークスピア、ダンテ、バイロン、コント、ハイドン、ディケンズなど)。女性に病的な嫌悪の念を抱いていた人もいる。フローベルはジョルジュ・サンドに与えた手紙の中で「詩神はいかほど統御しがたいといっても、女よりは悲しみを与えることがはるかに少ない。私は詩の神と女とを調和させることができない。それゆえ、いずれかを選ばなければならない」と言っている。人嫌いで知られていたシャンホールという警句家は言っている。「もしも人が理性の指導に従っていくなら、結婚などはしないだろう。とにかく私は、私のような息子ができると大変だから、結婚といったことには関わらない」。


「親に似ていない」ことも多くの天才の特徴であった。また、よく知られているように、彼らは驚くほど「早熟」だった(エンニウス・キリヌス・ヴィスコンチという天才はなんと6歳の時に「説教」をした)。が、ロンブロゾーはこれはある意味で病的なことであり、「5歳にして天才を有するものは15歳にして狂人となる」という諺が、不幸にもしばしば精神病院で証明されていると言っています。逆に「晩熟」の天才もいたと指摘しています。


「憎新癖」−新しいものを憎むという特徴もある。例えば、ヴォルテールは化石を否定し、ダーウィンは石器時代と催眠術を信じなかった。


「放浪性」も天才の顕著な特徴の一つ。例えばヘルダーリンは、最愛の妻が修道院に入った後、どこにも落ち着かず、40年間漂泊を続けた。


「無意識と本能性」。ロンブロゾーはハーゲンという研究家の洞察を紹介しています。「天才の特徴の一つは止みがたい衝動である。本能が生命を賭してまで、……天才はいったんある観念の下に領せられる時は、今までの観念を放棄して他の思想に移り行くということは不可能と見てよい。ナポレオンやアレキサンダーは単に栄光を愛するがためにのみ戦ったのではない。彼らは単に自己の全能なる本能に服従して事をなしたのである。ゆえに科学的天才は休息を持たない。その活動は時々意志ある努力の結果とも誤解される。天才は創造する。しかしそれは単に創造せんと欲するのではなく、創造せずにはいられなのである。」


さらに、周知の「霊感」。そして「感覚過敏」。天才の伝記を読むと、天才と常人の大きな相違点は、前者の感覚が精妙なること、あるいは常軌を逸していることにあることがわかる。ロンブロゾーは感覚の鋭敏が天才において最高潮に達すると指摘しています。同時に、「これがやがて天才の光栄であると同時に等しく彼らの不幸の原因ともなる」と。例えば、多くの天才は「騒音(ノイズ)」に悩まされた。市街のどよめきや鈴の音を避けるため、フローベルやゴンクールなどは絶えず引越をした。ウルキザという名の天才は「バラの花の香を嗅いだだけで気を失った」。


「独創性」こそは天才と能才とを区別する際立った特徴である。能才が「解説し、反復する」のに対して、天才は「発明し、創造する。天才は誰も気づかない一点に力を集中する」。彼らは「直覚」を有し、ゆえに「物事を完全に知る前に、すでの直覚している。ゲーテはイタリアのことを詳しく描写した。……そしてこの鋭い直覚のゆえにすべてが普通の観察を超越している。高遠な思索に耽っている天才は俗人の多くが有する習慣を持っていない。彼は能才のようではない。むしろ狂人に近いのである。天才は縄墨(規則)を寸断する。これがやがて嘲笑と誤解とを招くのである。俗人は天才が創造に到達する階梯を理解することができない。彼らはただ天才の結論の異常さと行為の奇怪さを認めるにすぎない」。


「偉人にして俗衆より馬鈴薯を投げつけられ、ナイフを振り回されない者は一人のなかった。人間の智慧の歴史は、ヴォルテールの言い草ではないが、人間愚鈍の歴史である」(フローベル)。以上、天才の特徴を羅列した後、ロンブロゾーはこんなふうに書いています。


天才が俗世間から受ける迫害の中で、官憲派の人々(アカデミアン)からこうむる迫害ほど烈しく恐ろしいものはない。彼らは政府という大部分俗悪なる人々によって組織されている城郭に立て籠り、俗衆の与えた名声を楯とし、虚栄と能才という武器を振り回して天才を迫害するのである。はなはだしきに至っては、国民一般の人智の低級なるがため、天才は言うまでもなく能才ある者をさえ憎悪する国が沢山ある。独創性はたとえそれが無目的の形をとるにしても、しばしば狂人の中に見出されるのである。特に文学的傾向を有する精神病者の中に見出される。彼らは特に天才の直覚を有する。……


この災いなる賜物の代りとして、天才と狂人とは共に日常生活に必要なる知識を欠いている。彼らは自らの夢よりも遥かにそれを不必要であると考えている。それと同時に彼らはまた習慣を度外視し、その無智をさらに危険なものとする。


こんなふうにして、500ページにわたり、無数の興味深いエピソードとともに延々と天才についての論考が展開されているのですが、今回はそのほんの「さわり」だけをご紹介させていただきました。ほとんどの天才は狂気や精神異常とセットで論じられていますが、最後の方で「正常なる天才」としてガリレオ、ダヴィンチ、ヴォルテール、ミケランジェロなどが紹介されているということを言い添えておきます(ロンブロゾー自身はおそらく自分のことを「能才」に分類していたのではないかと思います)。いつか機会を見つけて、政治上/宗教上の狂者/半狂者などについての興味深い事例を紹介させていただければと思います。
© www.kosmos-lby.com