コラム〜編集日記〜

第20回


今回、デイビッド・キセイン+シドニー・ブロック著/青木聡+新井信子訳『家族指向グリーフ・セラピー:がん患者の家族をサポートする緩和ケア』を刊行する運びとなり、ようやく一段落することができました。小社の力ではオーバーペース気味なのですが、内容的に意味があり、重要だと判断し、がんばってみました。この編集日記も20回めとなり、少々疲れましたが、一息いれてまたがんばるつもりです。


なお、『わかるカウンセリング』は、先日、日本本図書館協会選定図書に選ばれました。『フォーカシングで身につけるカウンセリングの基本』に続いてのもので、大変励みになりました。


今年はあと拙著編訳『片隅からの自由――クリシュナムルティに学ぶ』を来月出せればと思っています。400ページほどのまとまったものになる予定です。できるだけわかりやすくクリシュナムルティの教えがわかるよう、いろいろ工夫してみました。


ところで、ドン・ミゲル・ルイス著『パラダイス・リゲイン−−トルテックの知恵の書』の訳者大野龍一さんから、宮崎での公開講座での発表内容、および『禅セラピー』の読書感想が送られてきましたので、そのままご紹介させていただきます。



感情の聴き方


2004年10月延岡市 市民/青年大学講座資料


ドン・ミゲル・ルイスの新刊『パラダイス・リゲイン』(拙訳 コスモス・ライブラリー)の中に、「感情はリアルである 知識の声はリアルではない」と題された章があります。第7章ですが、ここには彼の伝えたいことが集約的に述べられていると思われるので、それについて少しお話しておきたいと思います。それは今回、僕が皆さんに一番お話したいと思っていることでもあります。


感情にはネガティブなものとポジティブなものがあります。僕らはポジティブなものは歓迎し、進んで自分のものと認めようとしますが、怒り、憎しみ、悲しみ、嫉妬などのネガティブな感情には警戒し、恐れ、そのようなものが自分の心の中にあるとは認めたくないので、これを抑圧しようとします。仮にそれを認めた場合でも、そうしたものが自分の中にあることに傷つき、元気をなくすのです。だから多くの人たちは「プラス思考」本の類を好んだり、「前向きな世界観」を説く教祖だの著述家だのの講演を有難がるのだと思いますが、ミゲルという人はそのようなことを申しません。彼は「感情には何も間違ったものはない」と言い、正直にそれら感情のすべてを感じ取るよう促すのです。


「あなたが感じるどの感情もリアルである。それは真実である。それはあなたのスピリットの完全性からやってくる。あなたは自分の感じるものを偽ることはできない。あなたは自分の感情を正当化したり、抑圧したりすることはできる。あなたは自分が感じているものについて嘘をつくことはできる。しかし、あなたの感じているものは本物である」


僕らはどうしてそのようなネガティブな感情を嫌い、抑圧しようとするのでしょうか? 彼は、それは自分の頭の中に植え込まれたプログラム、「知識の声」にあるのだと言います。これは一応、幼時から教え込まれてきた知識や道徳の体系、思考パターンだとご理解されてよいでしょう。それがこれはよい、あれは悪いといちいち告げ、裁くのです。彼は有名な「アダムとイブ」の神話から本書を説き起こしているのですが、遠い昔に人間は「知識の木の実」を食べてしまい、それは堕天使(別名「虚偽の王子」)の領有するところであったので、以来、人間は彼に操られる羽目になってしまったのだというのです。彼はその堕天使を、古代メキシコの秘教トルテックの伝統に則って、パラサイト(寄生体)とも呼びます。


これをたんなる神話と見るか、何らかのサイキックな洞察に基づくものと見るかはご自由ですが、ともかくその「霊的または感情的エネルギーでできた生きた存在」(『四つの約束:コンパニオン・ブック』用語解説)であるパラサイトが知識と共に各人の頭の中に入り込み、人間は自分の本物の感情ではなく、そちらの方に自己同一化してしまい、自分で自分を虐待するようになってしまったというのです。そうした社会と人間のあり方がえんえんとこんにちまで続き、僕らが生まれたときにはすでにそういうシステムがすっかり出来上がっていた。道徳を含めたあらゆる信念・価値体系が社会に姿なき独裁者のように君臨し、それに従って他者を裁き、自分を裁くのが人間の通常のあり方になってしまっていたというのです。


それは部分的な洗脳ではなくて、全社会的、人類的な規模での洗脳なので、ふつう僕らはそれに気づかないのです。現代の文明人にとって何より大事なのは自分の信念であり、価値観、考えであり、そうした諸々の観念の集合体である「自分」というものなのです。それが条件づけによって植え込まれた基本プログラムに沿って各人各様に作られたフィクションであり、幽霊であるとは思わない。逆にそれに自己同一化して、嘘偽りのない感情の方を恐れ、それを規制・支配し、抑圧しようとするのです。


読んでいないのでよく知りませんが、これは養老孟司教授の言われる「バカの壁」と似たようなものでしょう。思考し、観念をつくり、「自分」というものを構想するのは脳の機能です。それは脳が創り出す仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)です。そういうものでしかないと承知していればさほど害はありませんが、それを絶対視し、それに支配されるところに問題が発生するのです。


ミゲルはどうしてネガティブな感情が生まれるのかを犬を例にして説明しています。毎日犬を蹴飛ばしたりして虐待していれば、その犬は怒りや恐れの感情をもつようになる。そして攻撃的になって人にかみつくようになりますが、それは何もその犬が邪悪だとか間違っているとかいうことではない、その犬がそうしたネガティブな感情を示すようになるのは虐待に対する「正常な反応」だというのです。おまえは悪い犬だと説教しても何も意味はない。虐待しておいて「犬としての正しい反応の仕方」など教えるのは馬鹿げたことです。叱れば叱るほど、その犬は怒りや憎しみを募らせるでしょう。


大方の人はこれに同意されるでしょう。人間も同じで、これと同じことを社会は各人に対して行ない、やがてはその価値尺度、観念の内部への取り込みによって、人は自分で自分を虐待するようになるのです。だからいつ果てるともなくネガティブな感情は発生し続け、幸福感や充足感がもてなくなるというのです。


これが彼の言う「パラサイトの罠」です。それを見抜けるようになれば、虐待は終わります。「自分」(これは大部分の人が信じ込む幻想です)も含めた諸々の観念や価値と信念の体系(「知識の声」)が真正の自己ではなくて、むしろそれをわからなくさせ、深い生命の促し(「スピリットの声」)を拒絶する結果を招いているのだということが理解できるようになるからです。


多くの人たちにはこれ(=感情の解放)は危険なことだと思われるかも知れません。ことに「ロゴスの動物」である男性にはそうでしょう。これは一般論にすぎませんが、女性にとっては「感じること」が優先されるのに対し、男性にとっては 「(頭で)わかること」が何より大事なのです。言い換えれば男性の方が観念に支配されやすい、つまりパラサイトの餌食になりやすいのです。これはどちらがいいとか悪いとかいう問題ではありません。深い感情を欠く思想は空虚な観念となり、一方、理解なき感情は盲目になりやすいので、僕らはそれぞれの特性に応じて互いの長所から学ばなければならないのです。全体的な人間であるためには、「人は男であると同時に女であるように感じ、在らねばなりません」と、J.クリシュナムルティは言っています(ローラ・ハクスレー『この永遠の瞬間』第9章参照)。


話を戻して、僕らが生の感情を危険なものとして恐れるのは、そこにはよいものだけでなく悪いものが多く含まれていると思うからです。それが無秩序と混乱をもたらすと無意識に仮定しているからです。そして野蛮状態に転落してしまうのではないか、ひどくみっともないことになってしまうのではないかと恐れるのです。


この点でも「アダムとイブ」の物語は意味深長です。彼らは「知識の木の実」を食べた後急に恥ずかしくなって、すっ裸でいた自分の前をあわててイチジクの葉で隠しました。自分のありのままの姿が恥ずべきものと感じられるようになったのです。つまり、性とその象徴である性器は恥ずかしい、隠すべきものであると感じられるようになったのです。それをそう思わせたものは何か? 「知識(自意識)」でした。しかし、性、セックスは本当に恥ずべきものであり、罪悪でしょうか? 仮にそうなら、この世界は恥ずべき罪悪の上に成立していることになります。なぜなら、性ぬきに生命の存続はありえないのですから。


こう言ったからといって何もフリーセックスを奨励しているのではありません。性は生活の中にある以上、そこには配慮を要する他の現実的な様々な問題が関係してきます。「自分の自然な衝動に従って何が悪い」とそれらを無視して行動するのは度の過ぎた抑圧の反動か、さもなければただの無思慮というものでしょう。そうではなくて性それ自体を罪悪視し、覆い隠すべきものだとする思い込みはどこから来たのかを問うているのです。


これは一例にすぎません。よく言われるように、わが国では昔から「世間」というものが大きな役割を果たしてきました。「世間に恥ずかしい」ということがモラルの規凖みたいになってきたのです。世間的な一般通念はその時代時代の大多数の人々の思い込みの集合体にすぎず、ゆえにそれは無責任でいい加減なものでしかありませんが、幼時から「世間にどう思われるか?」ということを恐怖する大人たちに囲まれて育つので、それが条件づけとなって無意識にそれを恐れるようになるのです。そして自らそれと一体化して安心感を得ようとする。それに反する欲求、感情、直観は排除、抑圧されるのです。「世間」によって他を虐待し、自らを虐待する。このパターンが深くインプットされているので、世間的な通念に異を唱えようとする団体や、反社会的と見なされる集団内部においてさえ、その内部特有の「世間」が形成され、同じようにして異端分子を排除するということが繰り返されるのです。それはこっけいなほどです。


もう一つだけ、例を挙げるなら、古来どの宗教・道徳でも説かれてきた「愛の教説」というものがあります。「愛なき者は人ではない、心に愛をもて」というものですが、こういうものですら人を虐待する装置と化しているのです。単純な人はそれを見ない。そのメカニズムはこうです。 見てきたように、僕らの社会は正直な感情を抑圧、否定する各種の「虐待装置」をもっています。その中で育ち、他から虐待され、自ら自分を非難虐待するということを繰り返している人間に愛などもてよう道理がありません。先程の犬の例と同じで、虐待された者のつねとして、僕らの中には隠れた怒りや憎しみがあるのです。ところが愛の教説からすればそれは「あってはならない」ものなのです。そこで今度はまた、「愛がもてない」自分を非難するという羽目に陥るのです。愛の教えが逆に、苦しみ憎しみ偽善を生み出す装置になるのです。このプロセスをよく注意して見て下さい。


ミゲルによれば、愛は本来人間の心の中に豊かにあるものです。それは幼児を見ただけでもわかる。もしもこの世界から小さな子供がいなくなってしまったら、この人間世界はすぐに自滅してしまうでしょう。「愛の発電機」である彼らがいてくれているおかげで、それに助けられて愛なき大人も破滅を免れているのです(増加する一方の児童虐待はこの点、シンボリックです)。


すでに申し上げたいことはおわかりかと思いますが、なぜ僕ら大人が真正の愛ではなく、観念もしくは自我拡張欲の偽装でしかない「愛もどき」しかもてなくなっているかと言えば、社会に、自分の頭の中に「虐待装置」を作り上げ、自然な感情を抑圧するのが第二の天性になってしまっているからです。生きた本物の感情ではなく、「知識の声」の方に自己同一化し、前者を無視したり虐待したりし続けているからです。その結果、感情は変質し、欲望は歪みます。愛は失われる。だからその放出はしばしば危険なものとなるのですが、その原因の方は見ず、結果だけを見て感情や欲望は悪で危険だと決めつけ、さらに法律・規則の類を増やし、管理統制を強化する方向に向かうのです。結果、虐待はさらに強化される。それで事態が改善されるわけはないので、やることがまるで逆なのです。


ミゲルという人は、だから、「リアルな感情」の方に耳を傾けよ、それをじかに感じ取ることを学べ、と教えるのですが、これが実は容易なことではありません。少なくとも大人には困難なことなので、僕らは何かを感じるとすぐにそれを頭の中の「知識の声」に適合するよう解釈を加え、合理化しようとするからです。そうしてまたもや、感情が教えようとする真実から遠ざかってしまう。「知識の声」との無意識の自己同一化が破れないかぎり、そうならざるを得ないのです。そのために彼は何冊もの本を書いてきたと言えるので、それをここでかんたんに要約することはできません。ですから直接彼の著書に当っていただきたいのですが、以上のことを知的に理解されるだけでもいくらかはちがうだろうと思います。


それでも一つだけ、彼はこの『パラダイス・リゲイン』という本で、このことを容易ならしめるために「二つのルール」を提示しています(第6章)。最後にそれをご紹介してこの一文を終わりたいと思います。


ルールその一 〈あなた自身を信じるな〉。ルールその二 〈他の誰も信じるな〉。なぜかといえば、あなたも、他の人たちも、パラサイト=「知識の声」と自己同一化してしまっているからです。ゆえにそれを信じれば、またお定まりの自己虐待と混乱が反復されるだけになる。だから「信じ」てはならないが、しかし、同時に心と精神をオープンに保って、他者や自分の話に耳を傾けることはしなさい、というのです。信じることをやめて、かつ心をオープンに保つことを心がけていれば、あなたのもって生まれたスピリットの叡知が働き出し、それらの中に含まれた真実を聴き分けることを可能にしてくれるだろう。そう、彼は言うのです。知識や思考それ自体が悪いのではなく、「パラサイトに汚染」されたそれが問題なのだとかねて彼は言っています。もし人が無自覚な主客転倒から覚めてそれらと接することを学ぶようになれば、その自由を通じてその人の知識や思考も虚偽の影を免れたものへと次第に変化し、人生を豊かにするのを手助けする「盟友」となってくれる--それが彼の依拠する古代トルテックの教えです。


以上です。僕は話が下手なので、一番お話したいことだけ先に文書でまとめてお配りしておいた方がいいだろうと思い、これを書きました。まずい口頭でのお話をこれで補っていただければ幸いです。


(2004年9月17日 大野龍一 記)



ドン・ミゲル・ルイスの本(邦訳はすべてコスモス・ライブラリー刊)
『四つの約束』(松永太郎訳)
『愛の選択』(高瀬千尋訳/高瀬千図監訳)
『四つの約束:コンパニオン・ブック』(大野訳)
『祈り』(同上)
『パラダイス・リゲイン』(同上)


『禅セラピー』読後感


半ばまで途切れ途切れに読んだ後で、カラーマーカー片手にもう一度初めから読み直すことにしました。これは僕の精読するときの癖のようなものです。そうして丸二日かけて最後まで一気に読みました。


良い本で、大変勉強になりました。私事ながら、僕は今から十二年前に「『無心』とカウンセリング〜禅的人間観から見たカウンセリング理解」と題した修士論文を書いたことがあります。それはロジャーズの「カウンセラーの条件」に触れて、その理論の前提となる人間観が仏教における人間理解と類似していることを論じたものですが、ロジャーズ自身はそれを意識しておらず、彼がもしも仏教について学んでいれば、その理論はより明快で説得力のあるものとなり、臨床実践の場にも大きなプラスがもたらされるのではないかと感じていたからです。


この本の著者のデイビット・ブレイジャーさんは、それを行なっておられます。読んで嬉しく感じられたのは、その仏教理解が付焼刃的なものでないと感じられたことです。派手な物言いはありませんが、これはそれだけ親近が深く、板についているからだろうと思います。そしてこのことは、そのまま自己観念(その呼称がどうあれ)の呪縛から離れられない西洋のセラピー理論に有益な補正を加えることにつながっているように感じられます。


当時僕は、「無条件の受容」という言葉が安易に語られ、受け取られすぎているような気がして釈然としませんでした。そんなことがふつうの人間にできるのか? 自分を含めて周辺にそれができそうな人は一人も見当たりませんでした。研究室の合宿で友田不二男先生のカウンセリングのテープを聞かされたときだけは、こんな“達人”がいるのかと驚きましたが、その書かれたものは当時の僕にはあまり面白いとは感じられなかったため、親近することなく終わりました(拙論には『非指示的療法』の「歪曲をもたらすカウンセラー自身の『何ものか』を解消することが肝要」という、あるカウンセラーのエピソードの箇所だけが引用されています)。


僕が籍を置いていたのは東京国際大学(たまたま住居・職場の近くにあった)の伊東博教授の研究室で、伊東教授はボディワークを重視し、「身心一如」を唱え、東洋哲学や仏教についてしばしば語りましたが、身近にいた者として、それは著しく“カリフォルニア的”で、表面的なものと感じられました。今思えば、これは教授の無能と怠慢によるというより、それだけ西洋の心理療法と東洋哲学を架橋することは難しいということなのかも知れません。ユングに典型的に見られるように、西洋人の東洋理解は自説に適合するように何らかの深刻な歪曲をこうむっているのがつねです。その後心理学への関心をあらかた失ってしまったので、これは憶測をまじえたものでしかありませんが、トランスパーソナル心理学ですら、自我心理学の拡張もしくは変奏といった側面を多分に含みもっており、それが仏教などを理解する際の見えない障害となっているのではないでしょうか。わが国の学者やセラピストがその逆輸入された 東洋哲学理解を土台としてアプローチする場合、今度はそれが先入見となって理解を難しくするのです。むろん、これは一般論としてで、また不勉強な僕個人の漠然とした印象でしかないのですが…。


ロジャーズの臨床実践による“発見”は、しかしながら、西洋的な人間・自己概念によってはうまく説明できないものでした。彼自身がそのもどかしさを感じていたのではないかと思うのですが、そこに禅の人間理解をあてはめてみたらどうなるか…、当時僕はそのようなことを考えたのです(書く際、引用はほとんどしなかったものの、最も大きな拠所にしたのはクリシュナムルティの思想でした。僕の理解ではそれは禅と同じだったからです)。


本書『禅セラピー』にはその問題意識と重なり合うところが少なくなく、記述それ自体にも類似したところがいくつもあって、面白かったのです。むろん、拙論よりはるかに網羅的周到で、かつ実践的です。読んで、その先をやってくれているという喜びがありました。ブレイジャー氏は「正しい道」に乗っており、それは今後さらに深められるでしょう。ですからこれは、逆輸入されるべき大きな価値がある本です。それは僕ら日本人に足下にある宝の価値をよく教えてくれています。


私事ばかりで恐縮ながら、本書を読んだ後、僕はあらためて昔自分が書いたものを読み返してみました。意外にもほとんどおかしなところは感じられませんでした。「意外にも」と言うわけは、僕はその後数年間にわたって深刻な欝の襲来に苦しめられたからです。誤解を恐れずに言えば、それは「これだけのことがわかっていて、何で欝になどなったのか?」ということです。知的な理解としては今も当時もほとんど変わっていません。にもかかわらず、それは僕が欝になるのを防ぐことができず、何の役にも立たなかったのです。要するに僕は、自分が書いていることの意味が自分でよくわかっていなかったのでした。それがみじめさをより一層強めました。問題の所在がどこにあったのかをその後僕は徐々に理解し始めましたが、そういうことについてはまだ人に説明することはできません。


そういうわけで、書くことは比較的容易で、それはかなりの程度まで自他を欺くことができますが、ブレイジャーさんの場合はそのようなことはないでしょう。僕は昔も今も「門前の小僧」で、そういう人間がわけ知り顔にこんなことを云々するのはこっけいですが、仏教で語られる人間変容は、その前提としてある根底的な洞察の出現が不可欠だとはいえ、時間がかかるものだと思います。生命や感情と分離した知的な次元での理解はわかればそれで終わりですが、統一したものとしてのそれには終わりがなく、終わりがないことは焦燥をかきたてることでも空虚なことでもありません。それは無限に豊かになるもので、それがどういう性質のものであるかを、僕はほんの少し学ぶようになりました。僕自身は今後もお寺で修行するようなことはないでしょうし、ブレイジャーさんのように瞑想したり、厳しい規律の中で生きることもないでしょうが、生活を楽しみ、子供たちと遊び、人や仕事との出会いを楽しむうちに、その生活の中から必要な教えや試練を同時に受け取ることができるだろうと感じています。自覚をもてば、人生、生活そのものがセラピーであり、修行であることが誰にも了解されるのではないかと思いますが、本書でブレイジャーさんが伝えようとしておられることはまさにそのことではないかと感じました。


読むのにそう楽な本ではないので、多数の一般読者を獲得するのは難しいかも知れませんが、きちんと読んだ人はそこに多くの有益な示唆を読み取ることができるだろうと思います。ここには通常の自我心理学には欠けている視点や指摘が豊かに含まれているからです。むろん、セラピストやカウンセラーの人たちには非常に有用な本で、静かな革命を引き起こすものだと言っても過言ではないと思います。僕自身、折に触れて読み返すことがあるだろうと思います。よい本を出して下さったものだと、著者と訳者(よい日本語文です)に感謝しています。


2004.10.12. R.O.

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