第1回
小生は現在
『普遍宗教への階梯--スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集』(コスモス・ライブラリー 1998年)の出版準備をほぼ終え、目下8月23日(日)のシンポジウム「世紀を拓く心理学の条件」にコメンテーターとして参加するための“にわか勉強”にとりかかっています。
今回売れそうもない本をあえて編集してみたのは、やはりオウム真理教事件と関係があります。というのは、同教団に入っていく若者の一部はかなり真剣な宗教的求道心を持っているらしいが、にもかかわらず彼らを迎え入れるべき側のわれわれ一般社会人の多くはきちんとそれに応えることを怠っているとしか思えない。だとすればささやかなりとも、今毛嫌いされている“宗教”というものを考え直すきっかけを与える資料がもっとあってもいいのではないか。そもそも宗教が衰退しているのは、真正の宗教精神の体現者があまりにも少なく、彼らの生の声に耳傾ける機会がほとんどないことによるのではないのか。だからヴィヴェカーナンダという本物の宗教者の言葉を聞いてもらえば、たとえ一世紀前のものであっても少しは一般の理解に資するのではないか。そんなふうに思ったからです。また、以前、オウム事件が盛んにマスコミをにぎわせていたころ、某誌上で高橋さんという元信者が河合隼雄・中沢新一の両氏と討論し、自分が教団をやめる大きなきっかけになったのはクリシュナムルティの本(どれかはわかりませんが)を読んだことにあったという旨の発言をしているのを見つけ、そうか、たとえ地味な出版物でもそれなりの役に立つことがあるものなのだなと意を強くしたことがあるからです。
ところでヴィヴェカーナンダはある箇所で、イエスの発言に関連して次のように言っています。
新約聖書では、「天にましますわれらが父」と教えられている--人間から離れて天国に住んでいる神である。われわれは地上に住んでおり、そして彼は天国に住んでいる。さらに進むと、われわれは、彼は自然に内在する神であるという教えを見出す。彼は天にまします神であるだけでなく、地上の神でもあるのだ。彼は、われわれの内なる神である。ヒンドゥー哲学では、同じくわれわれへの神の接近の段階が見出される。が、われわれはそこでとどまらない。非二元的な段階--その中で人間は、自分が崇めていた神が天なる、また地上なる神であるだけでなく、「私とわが父はひとつである」と悟る--というものがある。彼は自分の魂の中で、彼は神自身であり、ただより低い現れであるにすぎないと悟るのである。自分の内で真実なるもののすべては彼であり、彼の内で真実なるもののすべては私であると。神と人との間の深淵はこのようにして超えられる。かくしてわれわれは、神を知ることによって、いかにして天の王国がわれわれの内にあるかを見出すのである。
第一のあるいは二元的な段階では、人間は自分が小さい個的な霊魂としてのジョン、ジェームズまたはトムだと知り、そして言う。「自分は永久にジョン、ジェームズまたはトムのままであって、けっして他のものにはなるまい」。それよりは、人殺しがやって来て、「おれはこのままずっと人殺しでいよう」と言うほうがまだましである。が、時が経つにつれて、トムは消え失せて、本来の純粋なアダムへと戻る。
「心の清き者は幸いなり、なぜなら彼らは神を見るであろうから」。われわれは神を見ることができるだろうか? 無論、否である。われわれは神を知ることができるだろうか? 無論、否である。もし神が知られうるなら、彼はもはや神ではないであろう。知識には限界がある。が、私とわが父とはひとつである。私は自分の霊魂の中に真実在を見出す。これらの観念はいくつかの宗教においては表現されているが、しかし他の宗教ではただ暗示されているだけだ。いくつかの宗教では、それらは生国から追放された。キリストの教えは、今やこの国ではほとんど理解されていない。失礼ながら、それらはけっして十分に理解されずにきたと私はあえて申し上げる。
純粋および完全に至るには、異なった成長の段階が絶対に必要である。多種多様な宗教体系は、根底においては同じ観念の上に立脚している。イエスは、天の王国はあなた方の内にあると言う。再び、彼は「天にましますわれらが父」と言う。この二つの発言をどう和解させたらいいだろう? 以下のように。彼が後者を言ったとき、彼は無学な大衆、宗教について教わっていなかった大衆に話しかけていたのだ。彼らに向かって、彼ら自身の言語で語りかけることが必要だったのである。大衆は具体的な観念、何か五感が把握できるものを欲する。
筆者が関心を持ったのは、特に後半にかけてのヴィヴェカーナンダの発言、キリストの言葉が(百年前の)アメリカで理解されていないどころか、けっして十分には理解されずにきたという指摘、そして最後の箇所で指摘されているイエスの言葉の持つ二重性です。というのは、ここで暗示されていることはまさに“エソテリシズム”に関連しているからであり、8月のシンポジウムで筆者が及ばずながらお話したいことに密接に関わっているからです。
拙訳
『グルジェフとクリシュナムルティ--エソテリック心理学入門』(コスモス・ライブラリー 1998年)によれば、“秘教”とは“公教”に対して使われる言葉であり、後者が「大衆向け」なのに対し、前者はより奥深い宗教の「真価を認め、理解する内面的な力を備えた人々向け」のものであり、そしてキリスト教の場合、その「秘教的な部分は公教的な側面からだいたい引き離されてきたが、しかし福音書中には無傷で残っている--見る目と聞く耳を持ったすべての人にとって。そしてグルジェフが、彼が教えた内面的発達のシステムは秘教的キリスト教と呼びうるものだと言うのを常としたというのは事実である。福音書の教えとグルジェフのそれとの類似点は、故モーリス・ニコル博士の著作、特に彼の本『新しい人間 The New Man』中でよりいっそう明らかにされた」。
モーリス・ニコル(1884-1953)はスコットランドで生まれ、青年時代ケンブリッジを最優等で卒業後、ユングの許で研究し、1921年にウスペンスキーに会い、翌年フォンテーヌブローの施設でグルジェフに師事し、その後ウスペンスキーの求めに応じて、1953年に死ぬまで〈ワーク〉の講義を続けた人です。
筆者の手元にはニコル博士の主著『グルジェフとウスペンスキーの教えに関する心理学的注解』の第1巻はあったのですが、『新しい人間』をぜひ読みたいと思っていたところ、幸いにも松永さんがお持ちだったので、現在お借りして少しずつ読んでいるところです。で、ニコル博士について少しわかってきたことは、彼が第一次世界大戦のとき軍人としてメソポタミアに行き、そのときのことを「メソポタミア従軍記」としてまとめていること、さらに第二次世界大戦からその後にかけての人類の惨状を目のあたりにして、人間にとっての急務は暴力性の克服であることを痛感していたことであり、それは『新しい人間』の執筆意図に関する次の言葉に如実に現われています。「福音書に含まれている教え、および一般に知られている短い歴史の期間における新旧の多くの教えを含むすべての教えは、人類の現在の存在のレベルを特徴づけている暴力性の超越についてのものだということを示すこと、それが私の意図です。それらの教えは、暴力性を乗り越える別のレベルの存在の発達可能性を断言しているのです」。
『新しい人間』はいろいろな意味で勉強になっていますが、特に「バイブル」にまったく無知だった筆者にその内容の重要な部分を英語の原典で読む機会を与えてくれただけでなく、またその秘教的な解読の面白さを教えてくれた点で大変ありがたいものです。さらに、このコラムで数回にわたり紹介してきた“世界中心的スタンス”に立っている人々のリストにもう一人ニコル博士を加えることができると思います。ただしここでは『新しい人間』について詳しくお話しするゆとりはありませんので、ニコル博士によって理解されているものとしての秘教的発達論の骨子だけご紹介しておきます。
博士によれば、福音書の中心テーマは「再生 re-birth」と呼ばれる内的進化の可能性であり、その内的進化とは実は理解(力)の発達を意味する。で、もしこの地上に生きている人間がこの主題についての明確な教えに接するなら、明確な内的進化を遂げることができると福音書は教える。この内的進化は心理的である。で、より“理解力ある”人になることは心理的発達である。それは思考、感情、行為--要するに、理解--の領域にある。で、地上の人間は理解における明確な内的進化を遂げることができるという教えに基づいた真の心理学、それこそが福音書の本当のねらいなのである。
福音書は徹頭徹尾この自己進化の可能性についてのものであり、その意味でそれは心理学的文書なのである。その中心的観念は、人間は内的に明確な成長が可能な種子だというものである。今あるものとしての人間は不完全であり、未完成であるが、彼は自分自身の進化をもたらすことができる。もしそうしたくなければ、そうする必要はない。そのときは彼は草と呼ばれる--つまり、無用なものとして焼き払われる。かと言って、人間に内的進化の教えを強制的に与えることはできない。つまり、これはあくまでも自薦の課題なのである。ところで、大変重要なことは「イエス自身、内的成長と進化を遂げなければならなかった」ということを把握することである。彼は生まれながらに完璧だったのではない。彼は最初からヒーリングの力を備えていたわけではない。事実彼はある箇所で、ある種の病いを癒すためには、多くの祈りと断食が必要だと言っている。いずれにせよ、彼も試行錯誤をしつつすべての進化段階を通過しなければならなかったのである。
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『新しい人間』を読んでいるうちに浮かび上がってくるイエス像を要約すれば、奇妙に聞こえるかもしれませんが、“トランスパーソナリストとしてのイエス”です。これについては次回にご紹介したいと思います。