コラム〜読書雑記〜

第5回


前回の終りに『聖娼』という本のことを紹介しましたが、著者のクォールズ‐コルベットは、言うまでもなく、古代の聖娼制度の復活を望んでいるわけではありません。彼女はまず、私たちの中に「聖娼に引きつけられる何かがある」という単純な観察から出発します。


「聖なる sacred」とは神聖なスピリットへの献身を意味する一方、「娼婦」とは身体を汚すことを意味しており、私たち現代人にとって、精神と物質、霊性(スピリチュアリティ)と性(セクシュアリティ)は切り離されていますが、「聖娼」という概念にはこれらの分離を解消し、私たちを統合した存在へと変容させるためのヒントが隠されているというのです。


聖娼についてのコルベット女史の認識の基礎にあるのは、『ユング心理学とキリスト教神学における女性性』という本の著者アン・ウラノフの次のような洞察です。つまり、男性、女性双方の中にある女性的な機能というのは、個性化を完成させ、それゆえ、心の発達にとってきわめて重要なものだということです。


男性であれ、女性であれ、個性化と直面化の最も高い段階は女性的なものによって導かれる。男性の場合は、アニマが自己へと導き、女性の場合は、自己へと導くのは女性的な自己であって、他のどんな男性的要素でもない。この意味において、女性性というのは完成に導く要素と言える。すなわち、個性化を完成させるのはどちらの性にとっても女性性なのだということである。男性性は原初的な無意識からの意識の出現を促す、そして女性性は無意識との接触を再び確立することによって意識の完成を導いていく。



さらにウラノフは、女性性の機能が持つ二つの元型的側面として、(1)母性と関連づけられる静的で基本的なもので、安全とか保護、あるいは受容といった感情を育む、安定して変わることのない側面と、(2)ダイナミックに変容を促すような側面があるとして、次のように説明しています。


女性原理のなかの活動的で変容的な側面は、変化とか変容を促進する心のダイナミックな要素を強調している。女性のこの活動的な面は、プラトンが『パイドロス』のなかで述べている魂の聖なる狂気に通じるものがある。その狂気とは、社会の規範とか、合理的な生活のもつ因習とか限界といったものから私たちを自由にするような太古の力を呼び起こす。エロスはこの意味において、エクスタシー、すなわち集団的な因習からの解放を生み出すのである……。エクスタシーとは、一瞬の忘我体験から、人格の深化までを含む。



コルベットによれば、「愛の女神と結びつけられ、聖娼と同一視されるのは、まさに女性のなかのこの動的で、変化し、変容を促す側面なのである。その側面が活発になると、世界や自分自身がそれまでとは違った角度で見えるようになる。創造性が刺激され、合理的な枠や制限といったものは、自由でとらわれのない、非合理的な領域へと押し出される。新しい態度がある種の興奮を導き、人生そのものが新しい意味をもち始める。歓迎すべき変化は、しかし創造のもつ危険と隣り合わせで進んでいく。恋愛しているときにも、私たちはこのような感情を体験するだろう。というのは、どんな原因であれ、これらの感情は女性性の変容的な側面から生じ、それは愛の女神と関係しているからである」。


これによって、コルベットが聖娼の研究を通じて解明しようとしていることのひとつは、男性性と女性性の調和の問題であることが明らかになります。ここで、「魂」、「霊」、「聖なるもの」の関係についての理解を共にするため、参考までに、筆者が現在翻訳中の『宗教を超えて Beyond Religion』(『〈宮台真司〉をぶっとばせ!』の中で、そのイントロ部分を紹介してあります)の一部を紹介させていただきます(2000年に『スピリチュアル・レボリューション--ポストモダンの八聖道』として刊行)。著者のデーヴィッド・エルキンスは、ずばり、「霊的発達のもっとも強力な道のひとつは、アニマの道」であるとし、次のように述べています。


この(欧米)文化においては、われわれは男性的なものを礼遇し、女性的なものを無視、あるいは裏切りさえする傾向がある。社会のレベルでは、この裏切りは男性的バイアスを上座に据え、そして社会の家父長制的権力構造を維持する。個人のレベルでは、自分の人格の女性的側面を無視する人々はみずからの魂との関係を絶ち、みずからの霊的成長を妨げる。けれども、男も女もともに女性的なものを再生させ、自分の霊的生活を深め、そして豊かにするためにアニマの道を用いることができる。



エルキンスによれば、アニマ anima、女性性 the feminine、および魂 soulという言葉はすべて、同じ現象学的リアリティをさし示し、女性名詞アニマは魂にあたるラテン語です。で、「霊的成長は、われわれが女性性を礼遇することを覚えるかどうかにかかっている。霊性を女性性の発達と結びつけることは不思議に思われるかもしれないが、アニマという言葉は単に魂をさすもうひとつの言葉であることをもしわれわれが思い出せば、そのときには、アニマを発達させることは魂を発達させることである。かくして、アニマの道は魂の道であり、より深く、より豊かな霊的生活への道である」。そしてエルキンスは、ユングの心理学理論に言及しつつ、「男も女も、自分が発達させたかもしれない、あるいはさせなかったかもしれない、男性的および女性的側面を持っている」と述べています。


そして、「女性性」という言葉によってエルキンスは「われわれ自身のうちのあのより関係的、直観的、神秘的、想像的、芸術的、創造的、感情的、流動的、そして右脳的な側面」をさしているとし、「それは、より論理的、理性的、分析的、連続的、組織的、構造的、そして左脳的な、男性的側面と対比させうる」と述べています。


エルキンスによれば、問題はこうです。欧米文化では、「ほとんどの男たちは女性性を避けるよう教えられる。少年の頃から、彼らは自分たちの男性的特徴を発達させるよう励まされるが、しかし女性的性質を発達させることを思いとどまらされる。この男性性の強調と、それに対応する女性性の無視は、男たちの霊的発達に深刻な影響を与える。かくしてカール・ユングは、男性クライエントとのサイコセラピィの中心的仕事は、彼らを彼らのアニマへ、彼らの人格のうちの無視された女性的側面へと導くことだと信じた。多くの男たちにとって、これは彼らの霊的な旅の始まりであるばかりでなく、彼らの心理的成長における重要な一歩である」。


エルキンスは、小児期から青春期までの全期間が、少年たちが彼ら自身の女性的側面を拒み、男性性を発達させるための訓練場となっているように思われるとし、次のように述べています。「少年たちが自分の男らしさを礼遇し、自分が男子であるという事実に心地よさを感じることのどこも間違いではない。が、多くの少年たちがもっぱら男性性に集中し、彼らの人格の女性的側面を無視、またはけなしさえする極端な仕方は、われわれが少年たちをこの社会に組み込む仕方に対して由々しき疑問を投げかける。これは、男性の発達の健全なプロセスであろうか、それともそれは、少年たちの魂にとって、そして結局は彼と人生を共にする人々にとって破壊的な、家父長的態度および価値を見習わせることではないのか? この、男性的特徴の極端な訓練は、自分の感情を表現し、他の人々に感情移入し、または親密な関係性を維持することができない男たちを生み出すのではないか? あるいは、多分、もっとも当惑させる問いはこうである。この一方的な訓練は、怒りっぽく、攻撃的で、暴力的でさえある男たちを生み出す傾向があるのではないだろうか?」


アメリカに氾濫しているバイオレンスがこうした硬直した男性性と密接に結びついていることは、言うまでもないでしょう。が、皮肉にも、男たちにこれほどまで女性性を裏切り続けさせる社会が、成人男子についてのあまりにも混乱した多くのイメージを持ち、それゆえ多くの若者は何が成人男子の身分への通過を画するのか定かではないというのです。堅信式を受けることか、酔っぱらうことか、ギャングの仲間入りし、町で見知らぬ誰かを射殺することか、入隊することか、結婚することか?


そこでエルキンスは、新たな通過儀礼のあり方として、両親が息子の男性的側面も女性的側面も共に認める必要があるとしています。つまり、母親は息子の性衝動の現れを含む男らしさを認め、父親は息子に、成年男子であることは優しさと思いやりを含んでいることを示唆することが望ましいというのです。で、ここでいささか逆説的ながら、女性性の回復こそがより深みのある男らしさへの大きな一歩だとエルキンスは言います。


矛盾しているように聞こえるかもしれないが、私は、自分の男らしさを取り戻すためのあらゆる男性の旅の一部は、彼の女性的側面の発達であると示唆しているのである。深みのあるあらゆる女性は、女性性が男性の男性的魅力の重要な部分であることを知っている。男性たちもまた、彼らが競争することをやめ、優しい気配りでお互いに触れあおうとするとき、この次元の重要性を認識する。ちょうど真に女らしい女性とは、柔弱さを超えて自分のもっとも深い力と強さに至った人であるように、真に男らしい男性とは、男っぽさを超えて自分の魂のより深い、より優しい領域に至った人である。全人(ホール・パーソン)とは、男であれ女であれ、その女性的および男性的側面がよく発達し、統合しており、相互に支えあい、強めあっている人のことである。



そしてエルキンスは、教え子が博士論文のためにおこなった、何人かの高度に発達した人々へのインタビューに基づいた調査成果に言及して、こう述べています。「主な調査結果のひとつは、彼らの各々が、例外なく、高度に発達した男性的側面だけでなく、高度に発達した女性的側面を合わせ持っていたということである。このことは、理想的な男性的発達は、女性性の発達と同一歩調を取ることを示唆している。自己実現した、高度に発達した男性とは、自分の男性的および女性的側面との間の統合したバランスを成就した人間のことであるように思われる」。
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