第6回
前回の終りに、自己実現した、高度に発達した男性とは、自分の男性的および女性的側面との間の統合したバランスを成就した人間のことであるという、
『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』の著者エルキンスの指摘に触れましたが、興味深いことに、クリシュナムルティもこのことを心得ていたようです。
『この永遠の時』という、ハックスレーの二番目の妻ローラ・アーチェラの著書の中で、クリシュナムルティはハックスレー夫人の「あなたは何をしているのですか?」という質問に対して、次のように述べています。「何も。私は単に宗教的な人間です」。で、夫人が「宗教的な人間とはなんですか?」と尋ねると、次のように答えています。「宗教的な人間とはどういうものかお話ししましょう。まず第一に、宗教的な人間とは単独なる存在者です--“孤独”ではなく、“単独”なのです--いかなる理論も、教義も、意見も、背景もなく。彼は単独であり、そしてそれを好むのです--条件づけから自由であり、単独であり--そしてそれを楽しむのです。第二に、宗教的な人間は男でありかつ女でなければなりません--性的にではなく、あらゆるものの二元的性質を知らなければならないという意味でです。宗教的な人間は男性的かつ女性的に感じ、そして両性的でなければならないのです。第三に、宗教的であるためには、人はあらゆるものを一掃しなければなりません--過去を一掃し、自分の確信、解釈、欺瞞を一掃し--すべての自己催眠を一掃しなければなりません。ついにいかなる中心もなくなるまで、おわかりですか? 〈いかなる中心もなくなるまで〉、です」。
また、『クリシュナムルティ伝』の著者で、暗殺された故インディラ・ガンディー首相の片腕として政界で活躍し、つい先頃死去したププル・ジャヤカールに対して、次のように指摘しています。「あなたは女性ですが、にもかかわらず多大の男性性を内に持っています。あなたは自分の女性性をないがしろにしてきたのです。自分自身の内部をのぞきこんでみなさい」。クリシュナムルティは、彼女のいわゆる男勝りの性格が彼女を野心的で攻撃的にし、グループの中心として活躍させ、それによって内面をひからびさせているのが手に取るようにわかっていたのです。「あなたの内部に何の豊かさも開花していないのです。もし豊かなら、同情や愛情を求めたりはしないでしょう? なぜ何の豊かさも持っていないのですか? 見てごらんなさい。これがありのままのあなたの姿なのです。……これはあなたの病気なのです」。
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『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』の一節「中年:女性性への帰還」の中で、エルキンスは次のように述べています。「ほとんどの男たちは、再三再四、特に人生の前半に女性性から逃げ去る。が、中年期に入るにつれて、多くの男たちははじめて魂により多くの関心を払い始める。中年の歳月は再評価の時であり、そして男たちはしばしば、自分たちの人生は一方に偏していた--あまりにも男性的追求に熱中し、人生のより魂のこもった、女性的な次元に無頓着でありすぎた--ことを発見する。かくして、若い頃にアニマを発達しそこなった人々にとって、中年はしばしば彼らの魂と再び結びつき、女性性へと帰還することへの招きの時となる」。
エルキンスは、サイコセラピーを通じて、実に多くの中年の男性が、金もうけや出世に捧げられてきた自分の人生に虚しさを感じ、自分の人生には何かが欠けていると気づいて、「優先順位を整理しなおし、妻や子供たちとより多く時間を過ごすようになる。彼らは、妻は彼女の言うことに耳を貸し、彼女の気持ちに感情移入し、そして自分自身の感情を彼女と分かちあう夫を必要としていることを認識し始める。子供たちは、彼らを金銭的にだけでなく、個人的にまた感情的に支え、彼らを日々愛し、養ってくれる、そういう父親を必要としているということに彼らは気づくのである」と述べています。
が、そのように変わることの必要に気づいたとしても、現実には、多くの男たちはつらい勤務の後にさらに家族と時間を過ごすなどというのは、物理的に大変厳しい課題ではないかと不安になることでしょう。しかしながら、エルキンスによれば、彼らが自分の女性的側面を伸ばし始めるとき、そういった負担に思われることの多くは自動的に変わり始めるのです。男性が彼の魂と結びつくとき、妻と話すことはもはや雑用でも義務でもなくなり、妻という、自分が愛するこの女性のもっとも深い思いや希望を真に知るための機会になるのです。「そして男性の魂が活発になると、彼の子供たちは、熱情であふれた父親の前ですくすくと成長する。彼は子供たちの喜びや苦痛を容易に感じ、そして彼らはまさに彼の魂の部分であるがゆえに、彼らのためにそこにいるようになる」。
そしてみずからの人生を振り返りつつ、エルキンスは次のように語ります。
熱情のない、死んだような人生を過ごしている男たちを見ると、私はこう彼らに言いたくなる。「そんなふうである必要などないのだ。君たちは自分の魂を取り戻し、自分の熱情を再発見することができるのだ。が、そうするためには、君たちは自分の男性的防衛を手放し、自分の優先順位を整理しなおし、そして自分自身を自分のアニマ--君たちがずっと以前に見捨てた、あの失われ、無視され、そして裏切られていた女性的側面--に通じさせなければならない。
エルキンスはさらに、「魂をおろそかにするのは男たちだけではない。多くの女たちもまた女性性の価値を減じ、そして結局は自分が混乱しており、その結果不幸であることに気づくのである」と言います。例えば、ロニーという、三十代後半のビジネスウーマンは、自分の人生で何かが欠けており、そしてなんらかの変化を起こす必要があると知って、彼のセラピィにやってきています。初めの頃、彼女の行動はまったく男性的で、そのため二人の間のやりとりはほとんど男対男的な性質のものでした。私たちのまわりにも、男性優位社会で生き抜いていくためにやむをえないにせよ、ロニーのような女性が多々見受けられます。
ロニーという女性は、エルキンスとのセラピィを通じて、やがて自分の女性的側面を回復させていくのですが、彼はロニーの中に現代アメリカのキャリアウーマンの典型を見て取り、そして「実業界にいる何千もの女性たちが自分たちの女性的側面を否定し、自分たちの魂との接触を失ってきた」と言います。そのことを補足すべく、『ヒロインの旅』という本の著者で、そうしたアメリカ女性たちとのワークを多く手掛けてきたモーリーン・マードックという女性セラピストの、次のような分析を紹介しています。
女性、とりわけ三十歳と五十歳の間の女性に対するセラピストとして働いて、私は、市場でかちえた成功への不満の叫びが響きわたるのを聞いてきた。この不満は、不毛、空虚、および寸断感として、裏切られたという感覚としてすら述べられる。これらの女性は、紋切り型の男性的ヒーローの旅に取り組み、そして学問的、芸術的、または財政的成功を遂げてきた。けれども、多くにとって問いが残る。「そのすべてはなんのためなのか?」。成功の恩恵はこれらの女性たちを過密スケジュールにし、疲労困憊させ、ストレス性の病気で苦しめ、そして軌道を外れたのではないかと思い悩ませる。これは、彼女たちが最初に達成と認知を追求したときには予期しなかったことである。頂上からの眺めについて彼女たちが抱いていたイメージは、肉体と魂の犠牲を含んでいなかった。このヒロイックな探求で女性たちがこうむった身体的および感情的ダメージに気づいて、私は、彼らがそれほどの苦痛を味わっている理由は、彼らが本来そうであるところの自分を否定するモデルを選んだことにあると推断した。
しかし、エルキンスは、「犠牲者を咎めてはならない。権力と経済的地位を得るために、前世代の女性たちは自分でやりたいように男たちと競争する仕方をおぼえざるをえなかったのである」と、彼女たちをかばい、そして次のように指摘しています。
過去二十五年余りの間に、ますます多くの女性たちが、以前は男性の砦であった実業、政治、および様々な専門職の分野で権力の地位に昇ってきた。これら現代のパイオニアたちは、女性は、まさに男性のように独断的で、論理的で、勤勉で、そして競争的でありうること、おまけに、給料の不公平、セクハラ、そして昇進を求める女性たちは男性の自然的居住圏を侵害しているという曲解的態度にもかかわらず、男性に能力的に対抗しうることを実証した。この、平らなグラウンドの欠如にもかかわらず、これらの女性たちはドアを開け、そして現世代の若い女性たちが市場で成功することをより容易にした。
けれども、彼女らの達成は尊敬すべきものであり、また賞賛に値するかもしれないが、それを追求するために、これらの女性たちの多くは自分の魂を犠牲にしなければならなかった。そして、今日の女性たちにとって機会はこれまでより大きいが、その一方で、われわれの社会はなお女性性の価値を減じ、そして尊敬に値する唯一の成功は男性的ゲームをすることであるとしばしば主張する。さらに、多くの女性は、仕事からわが家へ帰り、やはり育児と家事は結局妻の責任であると思い込んでいる夫に仕える。かくも多くのアメリカ女性たちが不安にかられ、意気消沈し、そしてストレス性の病気に苦しんでいるのも無理からぬことである!
が、とりわけ厳然たる結果は、これらの女性たちの内面の何かの死である。彼女たちが自分の魂を男神たちに生贄として供するとき、彼女たちは自分の直観、想像、霊性、および創造性との接触、ならびに自分の身体意識、熱情、および官能性との接触を失う危険にさらされる。魂に優しくない環境の中で何年もの間働くうちに、女性たちは生命の自然なリズムとの接触、他の女性たち、彼ら自身の母親や娘たちとの、また自分自身との接触を失うかもしれない。女性たちが女性性を裏切るとき、彼女たちの前に虚しさと絶望の深淵が大きく口を開く。男であれ女であれ、もしわれわれが自分の魂を裏切るなら、われわれは得心のいく人生を見出すことはできない。