第8回
この連載も今回が第三十回目ということで、早くも満五年経つわけです。この間、今年になってからかわいがっていた多くの猫たちが猫エイズで次々に病死するなどつらいこともありましたが、その猫たちの霊前に捧げるため、また新しい千年紀の始まりを目前にしてそれなりの貢献をするためにも、エルキンスの
『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』の翻訳をなるべく早く完成させたいと思っています。
この本の副題は「伝統的宗教の壁の外で霊的生活を築くための八つの道」というもので、前半は現在多くのアメリカ人の内面で静かに進行中と言われる“霊性の革命(スピリチュアル・レボルーション)”の実態を紹介し、「霊性」「魂」「聖なるもの」というキーワードを精緻に定義し直し、後半でその八つの道を提示するという構成になっています。それは「女性性 アニマの道」「芸術 ミューズの道」「身体 エロス、性および官能性の道」「心理学 カウンセリングとサイコセラピィの道」「神話 物語、儀式およびシンボルの道」「自然 地と天の道」「関係性 友情、家族およびコミュニティーの道」「魂の闇夜 実存的危機の道」であり、最後に実際にこれらの道をたどって霊的成長を志す人たちのための具体的なガイドとしてのプログラムを紹介しています。
何回かにわたって紹介させていただいたのは、これらの内容のごく一部です。「聖なるもの」に至るのに座禅とかいわゆる修行が入っていないことに疑問を感じる方も当然いらっしゃることでしょう。が、本書の特長はなんといっても、「伝統的宗教(著者の視野にあるのはキリスト教ですが)の外」にある私たちのごく身近にあるものを見直して、そこに活路を見出そうとしていることにあります。
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最近、精神世界誌「フィリ」からヴィヴェカーナンダについて書くよう依頼があり、そのとき昨年7/8月号を送ってくれたので目を通したところ、「魂について語る」という特集が組まれていました。その中に菅靖彦さん(日本トランスパーソナル学会前会長)や心理占星学研究家で同学会理事の鏡リュウジさんたちのインタビュー記事などと並んで紹介されていた、カリフォルニア総合学研究所教授のジュディス・O・ウェーバァ女史の「魂の道--私たちの真実の姿」という記事の中に次のような箇所がありました。
「魂」はわたしたちそのものです。わたしたちの存在のすべて、心や感情や肉体やそしてもちろん精神も含めたすべてなのです。はっきりしているのは、わたしたちは「魂」から自分を切り離すことなどできないということです。そして実の所わたしたちの存在の精神的な側面とは、わたしたちを深く満ち足りた統合された全体--つまりそれがわたしたち一人一人という個性ある魂の存在なのですが--へとつなぎ合わせてくれるものなのです。そうしたわたしたちの全体性を認め受け入れること、心と身体といった二元論ではないあり方、生き方、それこそがわたしにとって精神的な生き方であり、魂の道なのです。本来は全体的な存在であるわたしたちのある面にだけ注意が向けられたり強調されたりすることは、わたしたちの現代社会がどれほどバランスを失い、一面的になっているかの明らかな証拠です。こうした現代社会の傾向に対して、わたしたちの存在全体のバランスを取ること、それこそが精神的な探求においてなすべきことなのです。
さらに、知的なことにだけ注意が向き過ぎていることへの反動として今度は「ボディ」が注目され、ジョギングやエアロビクスなど、肉体を訓練することに異常な関心が向けられるようになったという事実に触れ、次のように述べています。
これは、この社会がどれほどバランスを失っているか、そして自分自身を取り戻そうとするあまり、また逆の方向にバランスを崩してしまっているかを示すよい例です。「魂」への関心がこれほど大きなうねりとなっているのは、西洋社会が一般的にその魂、つまり本当の存在から切り離され、いろいろな方法でその根底にあるものを回復しようともがいていることの現れだと私は感じています。
事実、欧米ではトマス・ムーアの『ソウルメイト』や『魂のケア』、ジェイムズ・ヒルマンの『魂のコード』(先程名前が出た鏡さんの訳で、河出書房新社から出ています)など、“魂”についての本が幅広く読まれているようです。それにしてもなぜエルキンスは「伝統的宗教の外」にその魂探しの場を求めたのでしょう? その理由の一端は、
『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』の前半にある、ユングが気に入っていたという次の物語にややユーモラスに示されています。
“いのちの水”は、地面の上で知られることを欲して、ある深堀り井戸の中でふつふつと沸き上がり、そして難なく、または限りなく流れた。人々は魔法の水を飲みにやって来て、それによって養われた。なぜなら、とても清浄で、純粋で、元気づける水だったからである。が、人類は物事をこのエデンの園のような状態のままにしておくことに満足しなかった。次第に彼らは井戸に柵をめぐらし、入場料を取り、そのまわりの土地の所有権を主張し、誰が井戸まで行き、門に錠をおろすことができるかに関する入念な法律を作りはじめた。すぐに井戸は有力者やエリートたちの財産になった。いのちの水は怒り、不快感をおぼえた。それは流れるのをやめ、他の場所で沸き上がりはじめた。最初の井戸のまわりの土地を所有した人々は自分たちの権力制度と所有権に夢中になっていたので、水が消え失せたことに気づかなかった。彼らは存在しない水を売り続け、そしてほとんどの人は本当の力がなくなったことに気づかなかった。が、何人かの不満な人々が大胆にも探索に乗り出し、そして新しい深掘り井戸を見つけた。すぐにその井戸は土地所有者たちの支配下に置かれ、そして同じ運命がそれに降りかかった。泉はさらに他の場所へと移っていった--そしてこれが、記録された歴史を通じて続いてきた。
エルキンスによれば、ユング派の分析医ロバート・ジョンソンはこの物語に次のような注釈を加えているそうです。
水はしばしば、人類のもっとも深い霊的養成の象徴として使われてきた。水は、例のごとく、歴史の中のわれわれの時代に流れている。なぜなら、井戸はその使命に忠実だからである。が、それはいくつかの奇妙な場所に流れる。それはしばしばいつもの場所に流れることをやめ、そしていくつかの非常に意外な所にひょっこり姿を現わしてきた。が、ありがたいことに、水はなお存在している。
以上を踏まえて、エルキンスはさらに次のように解説しています。「霊性は自由に流れるいのちの水によって維持される。が、物語が含意しているように、歴史を通じてずっと制度的宗教が水を柵で仕切って隔て、門に錠をおろし、そして誰が近づき、誰が近づけないかについての規則を作ってきた。宗教はしばしばおのれが水の唯一の管理人であると宣言し、非宗教的な人々に対して、いかに彼らに霊的傾向があろうと、彼らが教会のメンバーになり、その規則を守らないかぎり、彼らには水への権利はないと告げた。
そのような排除によって欲求不満になり、多くの人々が、今日、入場の代金を支払う気がしなくなって門に背を向け、そして新しい井戸を探しに出かけてしまった。かつて代金を支払い、入場を認められた他の人々は、彼らの宗教が不毛で干からびていることを見出した。自分たちが空約束と存在しない水を買っていると覚って、彼らは退去し、伝統的宗教の壁の外で新しい霊性を探し求めている人々の隊列に加わるようになった」。
こう語っているエルキンスは、かつて熱心なプロテスタントの聖職者(ミニスター)だったということを忘れないでください。また、一九二六年に、オーストラリアで研究活動に従事している二人の人類学者によって最初に報告されたという次のような実話を紹介しています。これは、先程紹介したウェーバァ女史が言及している、欧米人のバランスの喪失の問題に密接に関連していると思います。
オーストラリアの遊牧原住民の小集団であるアルンタ種族のアチルパ族(クラン)は、あちこちに移動するとき、常に聖なる棒を携えていた。一族の中でその棒がどれ程の星霜を経てきたか誰も思い出すことはできなかったが、言い伝えによれば、それは神ヌンバクラからの贈り物で、この神はそれをゴムの木から作り、それを登り、そしてそれから天空へと消えていったと一族全員が信じていた。一族は、その棒には聖なる力があると信じ、そして彼らは自分たちの生活をその周りに築いた。毎朝彼らは、棒の曲がり方によって彼らの旅の方向を決めた。毎夕彼らは、彼らの野営地の真ん中にその棒を立て、かくして、どこに行こうと、彼らの世界を確立したのである。彼らは、空に向かって伸びているその棒は彼らを天空および神ヌンバクラと結びつけていると信じた。かくして聖なる棒は、文字どおりかつ象徴的に、まさにアチルパ族の中心であった。
それからある日、聖なる棒が折れた。これは一族を混乱に陥らせた。彼らの世界を造り上げ、彼らを彼らの神に結びつけ、そして彼らの旅を導くべき聖なる棒を無くして、彼らは途方に暮れた。一族はあてもなくさまよい、ますます不安と混乱をつのらせ、方向感覚を失っていった。ついに、全員が途方に暮れ、そして人生が終わったと確信して、一族全員--百人余りの男と女と子供たち--が砂漠に横たわって、死を待った。
この実話は何を意味するのでしょう? エルキンスは、「このドラマチックな物語は、人間の生活における聖なるもの(the sacred)の性質と力、および聖なるものへのわれわれの結びつきが断ち切られるときに起こる方向感覚の喪失を例証している。 今日、西洋文化の窮状はアチルパ族のそれと同様である」と述べ、欧米人の本質的なバランス感覚の喪失の原因を追及しています。それについては、次回にご紹介させていただきます。