コラム〜読書雑記〜

第9回


前回、オーストラリアの遊牧原住民の小集団であるアルンタ種族のアチルパ族の話を引き合いに出し、聖なるものとの結びつきが断ち切られるときに何が起こるかについてのエルキンスの指摘をご紹介しました。 「今日、西洋文化の窮状はアチルパ族のそれと同様である」とし、エルキンスはさらに次のように述べています。


伝統的宗教は、かつては西洋の聖なる棒の役を果たした。それはわれわれの質問に答え、われわれの世界の中にわれわれを適応させ、われわれを天に結びつけ、そしてわれわれ自身の遊牧的な人生の旅のための指針を提供した。


が、今日、何百万もの人々がもはや伝統的宗教の儀式、シンボル、および神学によって心を動かされない。それはもはや彼らの知的、心理的、および霊的欲求を満たさない。かつては西洋文化のまさに中心に立っていた伝統的宗教の聖なる棒は、今やわれわれの足元で折れ、そして裂けたまま横たわっている。


聖なる棒が折れるとき、アチルパ族の間でであれ、あるいは西洋社会の中でであれ、強い反響が起こる。シンボルと神話体系は、文化が拠って立つ心理的および実存的地盤を構成する。シンボルが崩れ、または神話体系が転じたり崩壊したりするとき、われわれは実存的混乱に陥らされる。大地がわれわれの足元でガラガラと音を立てて振動する。土台が揺れ、亀裂が入る。そしてわれわれは、無の深淵に落ちることを避けるため、必死にしがみつく。


原始的な人々の一族が、単に彼らの聖なる棒が折れたがゆえに不安になり、方向感覚を失い、そして死ぬ覚悟をしたというのは驚くべきことだとわれわれは感ずるかもしれない。が、われわれの時代の実存的分析は、われわれが自分自身の霊的中心の喪失に対して、彼らに優るとも劣らないほどドラマチックに反応してきたことを示唆している。不安は、今や--ぴたりと臨床的抑欝を随伴する--米国における主要な情緒障害である。実存的苦悩がわれわれの社会に行き渡っている。それはわれわれの芸術、音楽、文学、映画、および演劇の中にある。それは、ますます高まる不安、抑欝、および自殺率の奥にある。それは、われわれの子供たちを今にも飲み込もうとしている倦怠と絶望感である。


われわれの霊的中心の崩壊は、われわれ全員に非常に個人的なレベルで影響する。あなた方の何人かは、自分がかつて信じていたあらゆるものが崩壊するのを目のあたりにしてきた。あなた方は不安と抑欝の深淵を覗き込み、そして希望が戻って来うるだろうかと危惧してきた。あなた方の中の他の何人かはまた、自分の子供たちが麻薬常用、暴力、またはその他の形の実存的絶望の渦巻きに吸い込まれていくのを見守ってきた。……実存的苦悶は教科書の決まり文句ではない。それは、あなた方の心に消すことのできない傷跡を残す、あなた方の人生の生きた現実なのである。



では、この窮状を前にして私たちには何ができるのでしょう? まず注意すべきことは、聖なる棒自体が存在しなくなってしまったわけではなく、むしろ私たちがそれとの結びつきをなくしてしまった、ということが問題だということです。ですからまず何よりも大切なことは、聖なるものはなお存在しているということを私たちがもう一度しっかり認め直すことです。そうすれば希望を回復し、聖なるものへの新しい道を見つけることができるようになるだろう、とエルキンスは言います。で、これが極めて重要なのは、「聖なるものは、そこから魂がそのエネルギーと力を引き出すところの永遠の源だからである。われわれが聖なるものから切り離されるとき、魂はしおれ、そして死ぬ。が、われわれが聖なるものと再び結びつくとき、魂は活発になり、そしてわれわれは霊的に成長する。このように、魂およびわれわれの霊性それ自体の福祉は、聖なるものへのわれわれの結びつきにかかっている」からです。


私たちが自分と聖なるものとの結びつきを回復し、私たちの魂を活性化させ、私たちの霊的な成長を促すことこそがまさに『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』でエルキンスがめざしていることなのです。そしてそのための足場を築くため、「聖なるもの--人間の経験の神秘的次元」という章を設けて、ルドルフ・オットー、エリアーデ、ウイルアム・ジェイムズ、マルティン・ブーバー、マズローたちが聖なるものをどう理解していたかを概観し、さらにそれに自分自身の見解を付け加えてきちんと総括しています。


これらについては同書をお読みいただくしかないのですが、現代社会の窮状を前にして、それをしっかり直視し、自分なりの説得力ある処方箋を提供しているエルキンスの姿勢からははとても心強いものが感じられます。しかも、自説開陳にあたって、ウイルバーやグロフら代表的なトランスパーソナル心理学者たちの業績もきちんと視野に入れています。


さらに筆者の受けた印象では、彼の文章は全体を通じて、私たちの内面の「より関係的、直観的、神秘的、想像的、芸術的、創造的、感情的、流動的」な部分、つまり“脳的”な側面に訴えるように書かれており、それは、例えば、ウイルバーの著作を読んだときに受ける、より論理的、理性的、分析的、連続的、組織的、構造的、そして“左脳的”な、男性的 印象とまさに対照的なのです。ただし、これらはあくまでも相補的であるべきでしょう。


今回、五百頁近くにもなる本を訳したにもかかわらずあまり疲れなかったのは、左脳偏重の時代に生きている人間の一人として知らず知らずに陥っていたアンバランスの中で、筆者の右脳が密かに求めていたバランス回復への願いの一端を満たされて心地よく感じたからかもしれません。事実、このところ筆者の頭は、どんなにもっともらしく書かれたものでも、その文章の奥から「真心」あるいは真の温かさが伝わってこないもの、あるいはどんなに柔らかな言い方で書かれていても、その奥に「操作的」な意図が見え隠れするようなもの、あるいは上位者ぶった教育者的な臭いのする文章には、ほとんど嫌悪に近い拒否反応を起こすのです。


最近、数学嫌いの子供たちが増えているそうですが、もしかしたら、集合無意識レベルで日本人の心が左脳偏重の風潮に〈待った〉をかけ始めているのかもしれない(教え方が悪いだけのことかもしれませんが)などと、つい思ってしまいます。


「ミレニアム」という言葉がすっかり定着しつつあるようですが、『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』を通読したかぎりでは、新しい千年紀には左脳的、男性的(家父長制=父権的)なものへの偏重によって陥っているアンバランスを是正するため、右脳的機能・女性性、つまりは魂の回復というものが様々な領域で取り上げられるようになるのではないか、という予感がします。


来年(2000年)4月に千葉大学で開催される「日本トランスパーソナル学会 第4回大会in千葉」のメインタイトルは「魂の予感」、サブタイトルは「女と男と家族と魂」になることがほぼ決まりました。松永さんの他、「賢治の学校」の鳥山敏子さん、キャスターの工藤雪枝さん、音楽評論家の湯川れい子さん、心理占星術研究科の鏡リュウジさんなどがパネリストに加わり、「女と男と家族」「魂について」のシンポジウムが催されることになっています。また、これとは別に、作家の五木寛之さんが最近、「魂の再生」という文章を「週刊現代」のために書いています。


エルキンスによれば、1980年代の「ニューエイジ・ムーブメント」の後、1990年代になって「魂へのムーブメント」がアメリカで起こったということですが、やや遅れてわが国にもそれが起こりつつあるのかもしれません。もっとも、いつものように、これも一過性の表面的なものに終わり、いずれはスーっと消えていくのかもしれませんが。ただし、わが国とは違って、『宗教を超えて(スピリチュアル・レボリューション)』を読んだかぎりでは、少なくともアメリカでの「魂へのムーブメント」、「非宗教的霊性」の探求は本物のようです。エルキンスはそれについて、次のように力強く述べています。


他の諸文化との接触を通じて、われわれはわれわれ自身のリアリティの構築は相対的であり、そしてこれは、文化の他のどの側面にも言えるのと同じくらい、われわれの宗教的伝統に言えるということを察知するようになった。その結果、多くのアメリカ人はもはや彼ら自身の宗教的伝統が唯一の真の宗教だとはみなさず、すべての宗教は提供すべき何かを持ち、すべては人間存在の霊的切望を満たすための正当な道だと信じるようになった。これはポストモダン的見地である。


この、われわれの宗教的自己中心主義の凋落と他の諸伝統の受け入れは、われわれの霊的進化における第一歩である。他の人々の物の見方に対して心を閉ざす島国根性は、ポストモダンの多元的世界ではまったく存続できない。われわれ自身の宗教的伝統を││それが霊的真理を独り占めするものではないことを認めつつ││尊重することができるとき、われわれは他の諸伝統を重んじ、そしてそれらが提供しなければならないはずのものに対してわれわれの心を開くことができる。


しかし、他の人々の物の見方に自分自身を開くことは容易ではない。われわれの多くは、自分自身の宗教を疑うこと、または他の人々の宗教を詮索することは良くないことであり、あるいはそうすることは神に対する冒涜行為であり、われわれの伝統への裏切りであるとさえ教えられてきた。そのような宗教的タブーはしばしば人間の心に深く根付いており、それらを超えるには大きな勇気が必要である。が、困難かもしれなくとも、私は、われわれ自身の伝統の活性化と他の人々の物の見方の受け入れを、霊的成熟への第一ステップとみなす。


本書の焦点である第二の、そして多分もっと大きなステップは、霊性と宗教は同義ではなく、魂を養うための、宗教とはまったく無関係の多くの道があることを覚ることである。第一ステップはわれわれ自身の伝統の入れ物を破り、われわれを他の宗教に対して開かせる。第二ステップは宗教それ自体の入れ物を破り、われわれを生に対して開かせる。われわれが第二ステップを踏むとき、われわれは生のすべては神聖であり、そして全宇宙は、そこからわれわれが自分の魂を養う糧を得ることができる庭であることを見る。


霊的発達のこの段階で、われわれは何が自分の魂にとって最善かを教えてもらうために司祭、牧師、ラビ、あるいはグルに頼ることをやめ、curam animarum (魂の救済/世話)を自分の個人的責任として担いはじめる。われわれは宗教を霊的発達へのひとつの道として尊重するかもしれないが、その一方でわれわれはもはやそれを唯一の道とはみなさず、自分の魂を特定の宗教的指導者や霊的修行に委ねることに用心するようになる。


そのもっとも根本的な形での個人的霊性は、われわれ自身の霊的発達の責任を負い、われわれ自身の魂の養い方を学ぶことを意味する。われわれの多くにとって、それは宗教を超え、その壁の外にわれわれ自身の霊的生活を築くことを意味する。


霊的成熟への旅は単に知的な旅ではなく、それは心をも伴う旅である。諸々の古い信念の死は激しい痛みを伴い、そして家族や友人からの理解の欠如はわれわれをほとんど呆然自失させるかもしれない。けれどもより広い霊的意識に目覚めることは、結局はそうした試練を受けがいのあるものにする。われわれは、われわれ自身の文化と信条の狭い境界を超えた新たなリアリティに突入する。われわれは自分の氏族との同一化を超えて、人類全般との同一化に向かう。なぜなら、われわれ自身の心の霊的切望は人類の普遍的な歌だからである。宇宙はわれわれの寺院になり、地球はわれわれの祭壇に、そして日常生活はわれわれの聖なるパンになる。世界の口碑、知恵の書、および霊的蔵書はわれわれの経典になり、そして全人類は、国、人種、皮膚の色または信条の別にかかわらず、われわれの会衆になる。


何百万もの人々がすでにこれらのステップを踏んでおり、そして何百万もが将来そうするであろう。伝統的宗教から離れて新しい形の霊性に向かう動きは一大革命であり、ポストモダン時代に移行しつつある西洋文化の一般的時代精神の一部である。この革命が終わるまでには、それは西洋における霊性の性質をすっかり変えてしまうであろう。
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