第17回 文化と文明の対立・補遺--ウィルバーの日記から
以前松永太郎さんがサングラハで一部翻訳紹介されていたウィルバーの一九九九年一年間の日記『ワン・テイスト』(現在、プロセス指向心理学の研究者青木聡さんに共訳していただいているところです)は、現代アメリカの内面・外面を知るためにとても参考になり、何よりも内容が多岐にわたっていて非常におもしろい本です。まだざっと目を通しただけなのですが、前回書かせていただいたことの補足にもなるかと思いますので、そのごく一部を紹介させていただきたいと思います。
まず、七月二十三日の出来事として次のように書いてあります。
北京のレオ・バークからEメールが来た。レオは、モトローラ社内の、世界中の約二万人の管理職員の教育を担当しているチームの統率者である。事業経営は、私が扱ってきたうちでもっとも最後の分野の一つであり、レオは二年前、現代世界のビジネスの現状を見事に分析した注目すべきレポートをファックスしてくれ、にわかにこの分野への私の関心をかきたててくれた。モトローラ大学の授業で『進化の構造』を使っているというのだ。レオのファックス以来、私は世界中のビジネスマンから送られてくる書状に以前よりずっと多く対応するようになった。で、(現在準備中の「コスモス三部作」の)第二巻が刊行されると、彼らの関心はおそらく加速されるだろう。第二巻は、特に、社会進化の技術・経済的基盤--広義の「ビジネス」--を扱っているからである。
レオは書いている。「この時点での私自身の旅は興味深いものです。サンタフェ・インスティテュートでの金曜日のミーティングで、私はこう問いを投げかけてみました。『交易事業体、特に多国籍企業は、人類の進化においてどんな役を果たすのでしょう? で、ビジネスは、個人、組織、および社会的レベルでスピリット、心、身体を統合した人類のビジョンを支持するためのどんな潜在能力を持っていると思いますか?』
何の答えも返ってきませんでしたが、しかしビジネスの現場でそのような問いを投げかけることは小さな一歩前進です。けれども、そのような問いを投げかける人間が自分自身の変容に本気で取り組まないかぎり、そのような問いについて考えてみよという練習問題を出しても、力ないものに終わるでしょう。結局、これはますます自己改善に励むかどうかではなく、本気で自己超越を実現するかどうかの問題なのです。」
文明(外的価値の総計)の最先端でビジネスに従事している人たちの中に、このバークさんのように内的価値の追求に関心を持ち、それを企業現場で生かせないかと考えている人がいるわけです。で、日記からは、このところウィルバーがそのような人たちとの交流を深めつつある様子が伺えます。前回筆者は「文化の側に立つ人は通常経済的には割に合わず、貧乏とは言わぬまでも楽な暮らしはできないということを覚悟しておくべきでしょう。物質的に豊かになるためには、様々な意味で文明と妥協しなければならず、その分だけ文化の擁護・推進に注ぐべきエネルギーを減らさなければならなくなるからです。両方ともうまくいくということは、残念ながらごく稀な場合を除きまず期待できないでしょう」と書きましたが、実はウィルバーはこの稀な場合に当てはまります。というか、彼はもはやお金を稼ぐ必要などないようです。彼の本は欧米ではよく読まれており(日本では『万物の歴史』が五年間でようやく三千部余り売れた程度です)、印税収入だけで左うちわでいられるからです。
これは実はとても良いことです。なぜなら、お金の心配がないので、彼は誰にも遠慮せずに内的価値の擁護・推進に邁進できるからであり、文明を文化価値に服従させるには、ウィルバーのような思想的巨人がその豪腕を遠慮なく自由に振るう必要があるからです。
なお、余談ですが、マーク・トウェインが晩年著しい人間不信に陥っていた時に書いた『人間とは何か』(岩波文庫)という本の中に、お金をめぐっての次のような対話があります。
老人:いや、必ずしも金をほしがるとはかぎらん。必ずしも権力、地位、その他そういった物質的利益を求めるとはかぎらん。むしろあらゆる場合に精神的満足を求める。その方法はどうあろうともな。そしてそれの欲望を決定するものは、その人間の気質││これが欲望の主人なんだ。気質、良心、精神的欲求、呼び名はいろいろとちがうかもしれんが、事実はただ一つのこと。金なんかに鼻汁もひっかけんて人間の話を聞いたことがないかね?
青年:ありますよ。たいへんな俸給である商社に迎えられたんですが、なんとしてもその屋根裏の書斎と書物とを棄てようとしなかったというある学者の話なんです。
老人:だが、それも結局はその主人--つまり、その男の気質である精神的欲求って奴を満足させんわけにはいかなかった--つまり、金よりも書物を選んだってだけの話だな。もっとほかにも例はあるかね?
青年:あります。隠者です。
老人:いい例だな。たしかに隠者ってのは、孤独、飢え、寒気、そのほか実にさまざまな危険に耐える。だが、これも結局は彼の中なる独裁者を満足させてるだけだな。つまり、その隠者の独裁者ってのは、金だの、見栄だの、そのほか金で買える贅沢よりも、むしろいまも言ったような苦難、さらには祈り、瞑想といったことの方を選んだだけにすぎん。ほかにもあるかね?
青年:ありますね。画家、詩人、そして科学者。
老人:なるほど。そりゃつまり彼等の独裁者ってのが、売ったり買ったりといったどんな職業よりも、たとえ金儲けの点じゃどうあれ、いまも言ったような職業の楽しみ方を、なにがなんでも選んだってだけの話だよ。主情念--つまり、精神の満足ってのはだな、なにもいわゆる物質的利益、物質的繁栄、つまり、現金だの、その他そういったものばかりを求めるとはかぎらん。いろいろと、もっとほかのことに関心をもったっていうだけの話だよ。わかったろう?
青年:そりゃまあ、認めんわけにはいかんでしょうがね。
老人:そうとも、認めんわけにはいかん。公務員の苦労、悩み、そのかわりには栄誉ってみたいなものを、賭けずりまわって求める人間も多いかわりにはだな、断乎としてそうしたものを拒む人間もまた少なくない。きっとまず半々だろうな。後者の気質が精神の満足、ただそれだけを求めるってんなら、前者だってやっぱりその通りだろうな。どちらにしたって、求めてるのは精神の満足、ただそれだけなんだからね。一方を汚いといや、どっちも汚い。どっちも求めてる目的は完全に同じなんだから、汚さもまた同じってことになる。どちらの人間にしても、選択を決めるのは気質なんだ--そして、この気質って奴は生れつき、生得のもの、つくられるもんじゃない。
この話がどの程度ウィルバーの生き方に関連しているかはわかりませんが、彼が寸暇を惜しんで学究的生活を送ってきたことは確かでしょう。彼がもはやお金にはあまり関心がないことは、九月二十二日の日記からも伺えます。そこでは、「国際コスモス賞」という、日本のある財団から毎年一回出されている賞に関する感想が述べられています。「日本版ノーベル賞」とか「アジア版ノーベル賞」とか呼ばれているこの賞は「その業績によって、われわれの世界を単一の相互依存的なものとして……理解する必要を強調してきた個人を顕彰すること」を目的としており、賞金は五十万ドル(約六千万円!)です。で、関係者がこの「コスモス賞」をウィルバーに授与したいと申し出たのです。ただしそのためには、ウィルバーにいくつかの会合に出席してもらわなければならない、と。
趣意書には「現在および将来おこなわれる研究にとってきわめて重要なことは、あらゆるものの相互依存的関係性を理解することである。しかしながら、過去の主流科学に使われてきた分析的方法をもってしては、それに十分答えることはできない。統合的かつ包含的なアプローチによって形成された新しいパラダイムの必要性が認められてきた。当財団はホリスティックでグローバルなパースペクティブの重要性を認識し、このアプローチに献身している人々の努力を支援することを願っている、云々」と書かれており、これを読んでウィルバーは基本的趣意に賛意を表しています。
が、さて、ではこれまでの受賞者の顔ぶれは? 全員が「右手一辺倒」の理論家、すなわち、システム理論家、エコ理論家であり、ほぼ三人称の「それ-言語」で研究に携わり、それによって「私/我々」次元(つまり、内的価値、意識、体験、豊かな気づき、内面的照明、霊的啓示)を無視している人々、微妙なものも粗いものも含めた「還元主義」の信奉者たちだ、というわけです。ただし、微妙な還元主義は粗い還元主義に比べればはるかに望ましく、その意味でこの財団の顕彰事業は、ホリスティックなアプローチの奨励という点で寄与してきたことは確かだとしています。ただし、あくまでも還元主義であることに変わりはない。
さて、財団関係者がウィルバーの業績に対して顕彰するということは、内面も外面も含めた真の「全体論」、すなわち「四象限全部」を受け入れることを意味します。が、本当にそこを踏まえているのだろうか? 詳しいことはわかりませんが、結局ウィルバーは受賞を辞退したようです。と言うか、ウィルバーによれば、システム理論はみずからを「良薬」だと称しているが、実は「病気」なのであり、ですから彼にとっては、「フラットランド」に住むこれまでの受賞者たちと混同されることなく、彼自身の所説を理解してほしかったのかもしれません。
ウィルバーがお金には左右されず、受賞よりも研究活動を重視したということは、高く評価されるべきでしょう。ただし、「フラットランド」というと浅そうに聞こえますが、実はそこは魑魅魍魎が跋扈する底なしの泥沼であって、そこの住人たちは、「ホラーキー」のはるか高い所からあたりを見下ろしているらしきウィルバーを、逆に下のほうから薄気味悪い笑いを浮かべながら見上げて、「おいでおいで」をしているのです。
ともあれウィルバーは、彼のいわゆる「フラットランド」としての現代社会の圧倒的多数を占めている外的価値の擁護・推進者たちに囲まれながら、ひたすら自己修養に励んでいるのでしょう。事実彼は、とてつもない博覧強記を支えるために、バーベルで身体を鍛えていると別の箇所に書いています。やはり「心技体」が充実していなければ、大業を果たし続けることは困難でしょうから。
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ところでウィルバーは、総体としてアメリカ人が内面的にどんな方向に向かっているかについて、「新しい個人中心的市民宗教の動向」と題された九月二十三日の日記できわめて重要な考察を展開しています。ちょっとした小論文くらいの量があり、ここではとても全部ご紹介はできませんので、その結論部分だけをお伝えするにとどめます。
ウィルバーはまず、ポール・レイ著『統合的文化の台頭』およびロバート・フォアマン著『草の根スピリチュアリティ・レポート』という話題の二書に言及して、ともにベビーブーマー世代を中心に、アメリカ人の内面でとてつもない文化的革命が起こりつつあるとしている点で共通していると指摘しています。ポール・レイによれば、「カルチャラル・クリエイティブ(創造的文化人)」たちを担い手とした「統合的文化」と称されるべき新しい、より高度な、より変容的文化が台頭しつつあり(以前、松永さんがサングラハで紹介してくれましたので、参照してください)、これは過去千年間に起こった文化変容のうちでも最も重要なものの一つである。
が、ウィルバーによれば、これら二書の内容は、かつての『アクエリアン革命』『カウンターカルチャーの形成』『ターニング・ポイント』「アメリカのグリーニング』といった初期ベビー・ブーマーたちの声明書とさして変わらない。ところが、ポール・レイもロバート・フォアマンも共に、現在進行中の革命は深く「スピリチュアル」な革命であるとしており、前者によれば「カルチャラル・クリエイティブ」はアメリカの成人人口の二十四%、四千四百万人に達する。
しかしウィルバーは、これら四千四百万人の主として中流階級のベビーブーマーたちが深い変容的スピリチュアリティを実現していないことは明らかだと指摘しています(ただし彼らの半分ほどは、それを実現したと主張しているとのことですが)。ウィルバーが「変容」と言う時、それは垂直的な「自己超越」を踏まえて使われています。これに対して、あくまでも自己に踏みとどまって、それに意味を与えようとする場合は、「変換的(翻訳的)』という形容詞を使っています。ですから、多数のベビーブーマーたちが実現しつつあるのは、実は「変容的スピリチュアリティ」ではなく、水平的な「変換的スピリチュアリティ」なのであり、そこには意識の垂直的成長はなく、あるのは自分の現状(自己発達段階)をそのままにして「良い気分を味わいたい」という願望だというのです。
この「変換的スピリチュアリティ」の源をたどっていくと、一九五〇年代にロバート・ベラーなど一部の社会学者などがその存在を指摘した「市民宗教」につきあたる、とウィルバーは言います。市民宗教というのは、制度的(教会)宗教から「神聖」感を市民社会のある面に移し、アメリカ人の一定の特性と歴史的出来事を神聖とみなし、例えばアメリカ大陸への移住という出来事を新たな「出エジプト」と、アメリカ人を新たな「選民」とみなし、自分たちのことを世界中の人々にスピリチュアルな福音をもたらす使命を担った国民とみなすといった性格の宗教のことです。
で、「カルチャラル・クリエイティブ」によって担われている「統合的文化」は、まさにこの市民宗教の最新版だとウィルバーは指摘しており、そこには真に「変容的」で、後慣習的で、トランスパーソナル的で、超合理的で、スピリチュアルな要因は働いておらず、むしろかなり多くの退行的自己愛が認められる。そしてカルチャラル・クリエイティブと言われている人の多くは、自己超越をめざしてはおらず、むしろ現在の自己に意味、是認、約束を与えようとしている。で、このような主にベビーブーマーたちによって推進されている新しい宗教を「個人中心的市民宗教」とウィルバーは命名しています。そして彼らのメンタリティの根底には「ポストモダン・ポスト構造主義」的態度が見られる。すなわち、反ヒエラルキー、反制度、反権力(権威)、反科学的で、きわめて「主観的」である。さらに際立った特徴は、「教会以外のあらゆるもの(ABC: Anything But Church)」を信じていることで、そして自分たちこそはスピリチュアルな実現、あるいは新しいパラダイムの「前衛」であり、それが世界を変容させ、アメリカを癒し、ひいては地球を癒す、等々と信じている。
ウィルバーはさらにそうしたメンタリティーの源をとしてのロマンチシズム(理のかわりに感情を重視する)や、さらに特別な関心対象としての「女性のスピリチュアリティ」(カルチャラル・クリエイティブの六〇%は女性)等々に言及していますが、そこは省いて、結論部分だけを紹介させていただきます。
ウィルバーの推計によれば、アメリカの成人人口の二十四%を占めるとされるカルチャラル・クリエイティブは深く変容的・トランスパーソナル的なスピリチュアリティには関わっていない。自己超越的変容に取り組んでいるのは多分約一%(それでもなお数百万人!)ぐらいだろう。ただし、厳しい査定にもかかわらず、カルチャラル・クリエイティブと同世代の人間として、ウィルバーは「われわれは、非常に広範囲に、変容的な、真正のスピリチュアルな解放という観念を真剣に受けとめた最初の世代である」ということだけは認めざるをえないとしています。成人人口の約一%が実際に真正の超越的変容に取り組んでいるというのは、それ自体が歴史的にきわめて稀なことであり、これはウィルバーの世代が世界に与える本当の贈り物と言えるのではないか、と彼は言っています。
要するに、いろいろ甘いところはあるものの、彼の同世代のアメリカ人は、真正の意識変容という花に栄養を与える豊かな土壌になっていることはウィルバーも認めているのでしょう。