コラム〜読書雑記〜

第18回 「カルマ」再考


「仏教と日本人」について、もしアンケートに答える形式で言えば、おおよそ次のようになるでしょう。


(1)誰かから(例えば両親、祖父母、親戚、学校の先生、友人、知人など)仏教について教わったことがありますか?  両親や祖父母からは何も教わりませんでした(あるいは、教わった記憶はありません)。ただし知人などから断片的に仏教がらみの話を聞いたことはあります。


(2)どの宗派の檀徒ですか?  一遍さんの創始した時宗だそうです。でも、ごく最近まで、浅草のラブホテルなどが並んでいる賑やかな一画にある日輪寺というお寺に年に一回、お墓参りに詣でるというだけの関わりです。その時は檀徒全員が一同に集まります。ただし、最近仏壇の下から一遍上人絵巻をまとめた本を見つけ(誰も読んだ形跡はありません)、それを眺めているうちにちょっと興味を持ちました。何よりも、いくつかのお寺に保存されている数点の肖像画には思わず目を見張ってしまいました。特にその中の一つはまるで妖怪のような顔貌で、一度見たらおそらく忘れられないでしょう。この肖像画を見て、一遍さんについての本を読んでみたいという気になっています。


(3)個人的には仏教に興味はありますか? 仏教自体に関しては、あまりにも広すぎて、何と答えていいかわかりませんが、教典そのものにはあまり興味はありません。ただし仏教を学び、修行した結果「覚醒」あるいは「悟った」とされている人々には興味はあります。例えば、最近ではダライ・ラマ。彼の書いた本はどの書店でも山積みになっています。個人的にはどれも読んだことはないのですが、「仏教を忘れた日本人」の多くが、なぜこれほど彼の本を読んでいるのだろうと、少なくとも社会現象として興味があります。多分、ダライ・ラマという存在から、ただ単に仏教を「知っている」だけでなく、それを「体現し、生きている」人という実感がじかに伝わってくるからでしょう。また、現代という時代状況を踏まえて柔軟な言動をしており、まさにウィルバーの言う「世界中心的」スタンスに立って語っているからではないかと思います。言い換えれば、もし日本にも彼のようなお坊さんがあちこちに出てくれば、日本の庶民たちも仏教を見直すかもしれないということです。


おそらく、日本の庶民たちは仏教者がどんな教典を読み、どんな修行をしたかにはさして関心がなく、むしろその結果どうなったか、どんな存在になったか(本当に慈悲深くなったか、不殺生戒を実践しているか、等々)に関心があったのではないかと思います。例えば、千観というお坊さんの場合。九一八年に生まれた千観は、出家して天台宗寺門派の本拠、園城寺に入り、そこで顕教と密教の双方を精密に学び、世に並ぶ者なしと言われるほどの優れたエリート学問僧として不動の名声を得た。が、やがて四条河原のあたりでたまたま空也上人に会い、「そもそもどうしたら来世に救いを得ることができるのでしょう」と尋ねたところ、「ともかくも、身を捨ててこその話でござろう」と言われた。これを機に、千観はそれまでのエリート僧としてのキャリアを捨て、摂津の国の安満という所で小さな庵を結んだ。そしてそこに籠りきりであっただけでなく、しばしば淀川の渡し場に出向き、みずから馬引きになって、無料で荷物などの運搬の労をとった。このありがたい、しかしずいぶん珍奇なお坊さんが、かつてはエリート学僧だったと聞かされて、誰がにわかに信ずることができたであろうか。それほどの様変わりであった。


千観は、生れつき心優しく、慈愛に満ちた人であった。どのようなことがあっても、かっとしたり、むっとしたりという、怒りの表情を見せることがなく、いつもにこにこと微笑を絶やさなかった。程なくして彼は里人たちから慕われるようになり、そしてとうとう里人たちの方で衆議一決、彼のために立派な寺を建ててしまった。この寺を金龍寺という(以上、『日本奇僧伝』(宮元啓一著、ちくま学芸文庫)より)



今回の同時多発テロ事件が起こった九月十一日の昼ごろ、筆者は古代の知恵の研究家として欧米ではよく知られていたポール・ブラントンの書いた『新カルマ論(What Is Karma-)』を印刷に回したところでした。今年の初め、出版社(ラーソン・パブリケーションズ)の図書案内を見ていたら、この本を全米の二千人余りの囚人たちに(多分、更生プログラムの一環として)配ったところ、その多くが深く感動したという読書感想を出版社に送ってきたと書かれていました。どんなところが囚人たちを感動させたのだろう? それが特に興味深かったのです。読んでみると、ブラントンの膨大な著作から「カルマ」に言及している箇所を選びだし、一種の箴言・省察録風にまとめたものであることがわかりました。しかも「カルマ」を真の自己責任と自己実現のための教えとして、新しい視点から見直していることがわかりました。今回のテーマ「仏教と日本人」にも関連しているところがあると思いますので、『新カルマ論』の一部を紹介させていただきたいと思いますが、その前に「訳者あとがき」で述べたことをそのまま引用させていただきます。



そもそも欧米、特にアメリカで「カルマ」という言葉が受け入れられるようになった背景には、どのような事情があったのでしょう? それについてのヒントになる話が、拙訳『自由への瞑想--タントラ・フォー・ザ・ウエスト』(阿含宗総本山出版局、一九九〇)に出ています。西洋人のためにタントラの教えのエッセンスをわかりやすく、かつ実践的に紹介したこの本(原書は一九八一年に出版)の最後のほうで、著者のマーカス・アレンは「カルマの深い意味」という一節を設け、その中で次のように述べています。


多くの東洋諸国がいま西洋に紹介しつつある、偉大なる知恵の中核となる言葉があります。それはサンスクリット語の「カルマ」で、西洋がたったいま理解し始めている概念です。もし私たちが衰退し、滅亡せずに、成長し、健康であり続けたいなら、私たちはそれを理解し、実行してみなければならないのです……。
カルマの法則は因果の法則です。私たちが世界に投入するあらゆる行為に対して、私たちはそれに等しく、ふさわしい反応を受けるのです。カルマの法則は、なぜ盗人は盗みに会うか、なぜ怒りっぽい人は怒気の世界に住むか、なぜ愛情深い人は愛情深い世界に住むかを説明しています……私たちは自分がまいた種を刈り取るのです。
カルマは私たちの人生に個的に作用し、さらにはこの惑星上の全人類に作用します。西洋はカルマの法則に対して完全に無意識であることによって、……全世界にとって実に多くの困難を引き起こしてきたのです。
白人種はとりわけ、地球上のほかのあらゆる人種を扱う上で、いくつかのゆゆしいカルマ的誤りを犯してきました。私たちが世界中に欲求不満と怒りを生み出してきたとしても驚くにあたりません。私たちは全員、いくつかの基本的態度を変えなければなりません。
マーカス・アレンは主にヴェトナム戦争(一九五四-七三)への反省を込めて語っており、今こそアメリカ人は西洋の最も偉大な師(キリスト)の教えを思い出し、それを実践に生かさなければならないというのです。


「汝の隣人を愛せよ」……「汝の隣人が汝にしてほしいと望むとおりに、汝の隣人に対せよ」……「汝がまく種のとおりに汝は刈り取る」


が、この世で隣人を愛することほど難しいことはありません。それを充分に認めた上でなお、マーカス・アレンは言います。


私たちは皆、他人を許し、認めることを学ばねばなりません。私たちは皆、他人と争うことをやめねばなりません。私たちは、ほかの人々を犠牲にして生きることをやめねばなりません。


私たちは自分の一生の内で、この地球共同体における人種主義、飢餓、貧困および搾取を廃止する責任があります。もし私たちがこれらの事柄に創造的観想力を向ければ、それは実現できるのです。


私たちは、西洋に感化を及ぼしてきた最も偉大な師の教えを思い出さねばなりません。彼はカルマを完全に理解し、それを教え、そして生きたのです。


私たちはいま始め、これらの変化を内なる、個人的レベルで起こさねばなりません。すぐにより多くの外面的変化が、これらの変化を促すために出てくるでしょう。例えば、「グリーンピース」や「大地の友」、反核運動、「ハンガー・プロジェクト」その他無数の環境保護グループのように、すでに出現しています。私たちは個人としておよび集団として、実に多くのことができるのです。私たち自身の内なる導き手が、最もよく私たちを導いてくれるのです。


私たちは刺激的な時代、変化と成長の時代に生きています。ある人々は変化を熱烈に受け入れつつあります。ある人々は、恐竜のように、適応力の欠如のために衰退し、消滅するまで、必要な変化の徴候に抵抗するでしょう。それはすべてあなたのカルマ次第です--あなたがこれまでしてきたこと、今日すること、および明日するであろうこと次第なのです。


マーカス・アレンが指摘しているように、カルマの教えはごく最近西洋人、とりわけアメリカ人によって理解され、受け入れられ始めたことがわかります。結局、聖書の中でキリストがカルマの教えのエッセンスを説いているわけですから、欧米人の一部は改めて彼らの最高の師の教えの重要性を再認識し始めているということでしょう。アメリカは現在政治的に逆戻りして保守化しつつあるものの、もしこの超大国の多くの人々がカルマの教えを理解し、それを実生活で生かすことによって内面的に変容すれば、それはやがて世界の運命にも影響を与えることでしょう。



しかし話はそうすんなりとはいきません。歴史の闇のずっと奥を覗き込むと、そこにある男の姿が見えてきます。以前ご紹介した『トルストイとドストエフスキー』の中で、著者のメレジコフスキーは次のような不思議な話をしています。


肉と血との神秘と奥義。キリストがこの神秘をその弟子たちに啓示した時に、それは彼らを戦慄せしめかつ魅惑した。「わが肉を食いわが血を飲む者は永生を受ける。われは最後の日にこれを蘇らすであろう。けだしわが肉は誠に食物であって、わが血は誠に飲物である。われを食する者はわれのごとく生きるであろう。」││「何という不思議な言葉であろう。誰かよくこれを聞きうるものがあろうか。彼はヨセフの子イエスではないか。彼の父母はわれわれの知るところではないか。どうして彼がその肉をわれわれに与えて食ましむることがでできよう。」


「この時から弟子のうちの多くの者は彼を離れて、彼と共に歩かなかった。」


しかしながらこの「不思議な言葉」を聞いて最も驚いた者は彼と共に留まった。「われ汝ら十二人を選んだではないか。けれどその中の一人は悪魔である。」 それはシモンの子イスカリオトのユダを指して言ったのである。けだし彼は十二人の一人でありながら、イエスを売らんと思っていたからである。 


ユダは始めから悪魔であったか。彼がそうであったとすれば、何故に救世主は彼を選んだか。ここに説き難い秘密が存する。われわれはただ、ユダが古い純乎たるセミチック(セム族、特にユダヤ的)精神の化身であり、主が「われは律法を廃するがために来たのではない、これを行なわんがために来たのである」と言ったその律法の擁護者であり、旧約の宝の擁護者であったことを推知しうるばかりだ。彼は力と栄光のうちに来るべきイスラエルの王を待っていたのである。あらゆる民族、国民を烈火のごとき怒りの血祭りにする神の子を待ち望んでいたのである。


ところが神みずからが犠牲になるであろうということ、イスラエルの王はその処刑者の手中にあって黙せる小羊のようであり、彼の肉はあらゆる民族、あらゆる国民、すなわちあらゆる「造物」の食物であり、彼の血はその飲物であるということを聞いた時、彼にはこれがいかなる涜神と思われなければならなかったか。神の民全イスラエルが亡びるより、世の救いが空になるよりは、一人の人間の亡びる方がよい。この考えを決行するには三十銀も要しなかった。そこで世を救うがために、ユダは人と子を売り渡したのである。


ここには「汝の隣人を愛せよ」……「汝の隣人が汝にしてほしいと望むとおりに、汝の隣人に対せよ」……「汝がまく種のとおりに汝は刈り取る」という、カルマに関わるイエスの教えなどまったく顧慮しようとせず、「目には目を、歯には歯を」と叫んでいる人間がおり、このユダの亡霊が今もイスラエルやアメリカの多くの人々に取りついているような気がします。


これに対して『新カルマ論』の著者ブラントンは次のように言います。


秘教的なカルマの解釈は次のことを認めている。完全に孤立した個人というのは単にわれわれの想像の作り事にすぎない。各人の生活は、地方的、国家的、大陸的、そしてついには地球的規模へと常に広がっていく円によって、全人類の生活とからみ合っている。各々の思考は、世界に広く行き渡っている精神的雰囲気によって影響される。また、各々の行為は、無意識のうちに、人類の一般的活動によって与えられる支配的かつ強力な示唆の協力で成し遂げられる。


われわれの各々が考え、行うことの結果は、支流のように社会というより大きな川に流れ込み、そこで他の無数の源からの水と混ざり合う……。


かくしてわれわれは、自分自身の幸福と社会の幸福を切り離すことはできない。われわれは、内面的孤立を免れ、われわれの利害を〈全生命〉のそれに合体させなければならない。階級間、国家間、人種間の敵意は無用であり、大小様々な集団間の憎悪や争いは無用である。すべては究極的には相互依存しているのだから。



カルマは単に個人にだけ適用されるだけでなく、市町村、国、さらには大陸さえ含む集団にもまた適用される。人は決して人類から離れることはできない。全員が相互に結びついている。個人は、ほとんどすべての人がしているように、他人をほったらかしにして自分だけで生きていけると、誤って思い込むかもしれないが、しかし遅かれ早かれ、経験がその誤りを明らかにする。全員とも結局は一つの大家族なのである。これは、経験についてよく反省してみる時、人が教えられることである。何が真理かについて熟考してみれば、一つの身体の腕や脚のように、われわれ全員が〈超自己〉として一体であることを、結局は知るであろう。このことの結論は、単にカルマが個人に教訓を教えるべく働いているがゆえにだけでなく、人類全体に、その一体性についての最終的かつ最高の教訓を教えるべく働いているがゆえに、われわれの各々は、自分自身の幸福だけでなく、他の人々のそれをも等しく考慮しなければならない、ということである。


この考えを最近の戦争(第二次世界大戦)に適用する時、それが部分的(単に部分的に)貧国民に対する富国民たちの無関心、統治状態の悪い国に対する統治状態の良い国の無関心の結果であり、さらに自分の国がうまくいっている時、他の国々がそうではないとしたら、それは不幸ではあるが、それぞれの国の問題であっていたしかたないという孤立主義的感情の結果であることがわかる。要するに、隣国の一つでも貧しくて不幸である間は、どの国にとっても真の繁栄と幸福はないということである。各人はその兄弟姉妹の世話人なのである。



カルマは単に個人的な事柄ではない--決してそれだけの事柄ではありえない。社会全体がスラムを作り出し、それが犯罪者を生み出すのである。もし社会が彼に対して罪を償うことを求めれば、彼は社会に対して自分の犯罪的性格を可能にしたことの責任を取るよう求めるかもしれない。それゆえ、社会もまた彼の悪事に対するカルマ的責任を、たとえ彼自身より少しではあれ、彼と共に取らなければならないのである。



一つの集団全員が悪行の道をたどる時、彼らは浄化と悟りのために苦しみを招来する。利己性が社会を支配しているかぎり、それだけ社会はその苦しみをこうむるであろう。ある国民が他の国民の災難に無関心であるかぎり、それだけ彼らは遅かれ早かれ他国民の災難を共にするであろう。もし富国民が貧国民を助けることを拒めば、彼らは部分的にその結果に対する責任を負わざるをえなくなる。強国が他国を迫害することをみずからに許した場合も、攻撃的民族が弱小民族を無理やり支配した場合も同様である。過去の世界大戦は、これらの真理をふんだんに例証してきた。



今回のテロ事件も、こうしたより大きな「集団的カルマ」という観点からとらえ直す必要があるのではないかと感じています。なお、最近プロセス指向心理学の創始者アーノルド・ミンデルの書いた『紛争の心理学』(講談社現代新書、長沢哲監修・青木聡訳)が出版されました。とりわけ「テロリストと向き合う」というチャプターは、今回の事件について考える上で必読だと思われますので、お知らせしておきます。
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