コラム〜読書雑記〜

第23回 近藤富蔵と『八丈実記』


神儒仏三つの教えは一つにて、善を勧めて悪を懲らすなり
-- 近藤富蔵


「代表的日本人」というテーマは内村鑑三の本にちなんだものとのことですが、岩波文庫から出ているこの本では西郷隆盛(新日本の創設者)、上杉鷹山(封建領主)、二宮尊徳(農民聖者)、中江藤樹(村の先生)、日蓮上人(仏僧)が取り上げられています。


そもそも「代表的日本人」という場合、その選定基準はどのようなものなのか? それによって浮かび上がってくる人物像が決まってくると思います。私見では、この日本という国に住んでいた(あるいは住んでいる)人で、私たちが意識的無意識的に抱いている人間としての望ましい発達可能性を非常に高い程度まで実現した人というのが、一つの基準なのではないかと拝察します。つまり、この国の気候風土、風習、政治的・経済的・社会的条件や特殊性を背景にしつつ、様々な制約条件の下で、あるいは、いわゆる逆境をバネにして最高度の自己実現を遂げ、さらには自己超越まで果たした人は、私たちが自分では無理なのだが、そうありたかったという切望を満たし、私たちを励ましてくれるような存在なのだと思います。さらに、人間への信頼をつなぎとめてくれるような存在であることもきわめて重要だと思います。さしあたりこうした基準に照らしてみて、サングラハの皆様はどんな人物を思い浮かべますか? 


筆者は最初、浅学非才ゆえとてもこのようなテーマで何か書くことはできそうにないとあきらめかけていたのですが、ふと「近藤富蔵」という名が浮かび上がってきました。柳田國男が『島の人生』(創元社、昭和二六年)で一部紹介しているので、民俗学や離島の歴史に関心がある方はご存じだと思うのですが、『八丈実記』の著者として知られている人です。


そもそも、近藤富蔵のことを知るきっかけとなったのは「新年雑談」という、新潮社のPR誌『波』の一九七四年一月号に載った小林秀雄のエッセイです。そこで、このエッセイに触れながら、富蔵に関する他の資料を交えて、富蔵という人物に迫ってみたいと思います。そのためには、八丈島への流刑の原因となった殺人事件に至る経緯を知る必要がありますので、それをやや詳しくご紹介してみます。


◆ 父重蔵との確執


富蔵が文化二年(一八〇五年)に江戸に生まれる数年前頃、父近藤重蔵守重は、蝦夷地・千島方面を探検し、特に高田屋嘉兵衛の協力を得てエトロフ航路を開き、享和二年(一八〇二)にエトロフ島でロシアの標柱を廃し、大日本恵登呂府の木標を立てるなど、ロシアの南下に対する北辺の防備・開拓のために大活躍をしていました。


また富蔵の幼少時、父重蔵は幕府の紅葉山文庫を管理する書物奉行に就任、得意の時期にあったのですが、私生活では、この頃妻を離縁し、再婚したため、富蔵は四歳で実母と生別せざるを得なくなりました。


羽振りのよかつた父重蔵は、この頃、鎗ヶ崎(現在の目黒駅近く)に別邸を造築し、ここに富士塚を築き浅間神社の分社と自身の蝦夷地探検の際の甲冑姿を石像にしたものを建立し、一般に開放しました。


重蔵が土地を購入した相手は地主の塚越半之助と言い、この新名所を見物に来る客をあてこんで、土地売却の資金で蕎麦屋を隣接し儲けを企んでおり、これが後に近藤家にとつて禍の元となったのです。


もちろん、重蔵は道楽だけに興じていたわけではなく、若き日から様々な著作や献策を著していました。書物奉行として『金銀図録』や『宝貨通考』を著しては献納、また家康以来の外交文書を整理した『外蕃通書』十巻など編纂し、これまた幕府に献納するなど、まさに得意絶頂にあつたのです。そういうわけで彼に驕りがなかつたとは言えず、ついに紅葉山文庫の改築をめぐつて老中水野出羽守と対立、結果、大坂弓矢鎗奉行に転役を命じられます。


大坂での重蔵は、以前にもまして放蕩、散財を繰り返しています。思春期の富蔵にとつて父の所業は耐えがたいことだつたようで、父子のあいだに齟齬が生じたとしても不思議はない状態でした。晩年、当時の父の行状を回想して次のように述べています。「時々町芸者らを呼びあつめて肉を堤にし酒を池にする如き遊興にて、一度の金子十二両に及ぶ。かかる遊び毎月両三度……酒食の費も多し。妾は十五両二人扶持……を惜しまず、常に七人に余る美女きらをかざりて給仕せりしかども、短気にて久しくは勤まるものなし。妻も八人ばかり縁組せり。妾はその数を知らず」「ああ惜しいかな、小身にしておごり過分の故に青雲の志を失いぬ」。


この頃、仔細は不明なのですが、富蔵は天満鈴鹿町の本教寺に四ヶ月ほど預けられています。この本教寺滞在中に富蔵は佐藤そえという十四歳の少女と出会っていますが、これは富蔵にとって運命的な出会いだったようで、その時のことを後年次のように述べています。「大阪におもむいて父のつかいで称法山に行き、はじめて女をかいまみてから、天上の美人もかくやとそぞろにこころまよって、忘れるひまはなかったが、さすがに人目をしのび、むなしく過ぎた」 なかなか会えないため、かえって恋心がつのっていったのです。


さて、父重蔵の大坂滞在は二年半ほどで終わりましたが、大坂での振る舞いが再び不評を買い、文政四年(一八二一)春に江戸に呼び戻され、永代小普請入りを申し渡され、一気に出世の道から転落したのです。これはほとんど無役に近い人事です。


しかも、江戸に戻つた重蔵にはさらに厄介な問題が待ち受けてました。実は、大坂に赴任する時、留守の別荘と庭園の管理を塚越半之助に依頼していたのですが、この半之助が蕎麦屋から見物可能なように勝手に改築して客を集め、商売に利用していたのです。重蔵はこれを知つて激怒、ただちに復元を迫りましたが、元博徒でしたたかな半之助は、重蔵の名声が地に落ち始めたのを知つて従おうとはしませんでした。


結局、事は訴訟にまで発展し重蔵側が勝つたものの、その後も半之助は無頼の徒を雇つていやがらせを繰り返すまでになりました。ここまでの無法に強硬手段をとれなかつたのは、これ以上トラブルを起こせば重蔵自身が窮地に追い込まれるのは必定だったからです。こうして、なすすべもなく我慢を強いられる日々を送っていたのです。


こうした近藤家の一大事に際して富蔵はどうしていたかというと、実は不在だつたのです。すでに大坂時代の文政五年(一八二二)に父とのいさかいから出奔し、紆余曲折を経て越後高田の最勝院性宗寺に赴き、有髪のまま入門していたのです。後に獄中で富蔵が著した『鎗丘実録』には、「父ヲウラムコトアリテ出奔シ、……」と書いています。


◆ 「鎗ヶ崎事件」とその顛末


富蔵と父との対立の要因となったのは、前述の佐藤そえとの結婚でした。富蔵は大坂の本教寺で見初めたそえが忘れられなかったのですが、重蔵は頑として認めませんでした。観音菩薩のごとく映ったそえとの結婚の許しを得られないと知った富蔵にとつて、もはや安住する世界はなくなり、こうして彼の足は仏門に向かったのです。性宗寺では本格的に仏典に触れています。父との葛藤と恋愛の破局が、富蔵を仏典に向かわせたと言いいうるでしょう。


ここで四年ほど修行に励んだのでが、不遇をかこつ父の様子が風の便りに届くので、すでに勘当の身ではありましたが、人を介して父の許しを受け、富蔵は江戸に戻ります。そこで彼は、父重蔵が小普請組に身をやつしている上に、なおかつ鎗ヶ崎の別荘をめぐるいざこざで苦境にいることを知つたのです。


ここに至つて富蔵は自問しました。いわく、「半之助ヲ討テ吉凶ヲ一刃ノ上ニサダメテ我家督ヲ奉祀シテ日比(日々)恋シタフ妻ヲ嫁トルカ」と。つまり、父の窮状の一端を救つて近藤家再興を図るとともに、併せて宿願の佐藤そえを妻とする許しも得たいと考へたのです。


もちろん、ひと騒動を起こせば、それが近藤家の致命的転落を招きかねないというためらいはありましたが、目の前に見る悄然とした父と、心中に宿るそえの面影を思い、決断を一気に下したのです。富蔵は玉川にみそぎして祈願、父の敵半之助一家七人を斬り捨てました。文政九年(一八二六)五月十八日、富蔵二十二歳の時でした。


富蔵のこの行動に対して父重蔵は落涙し、次のように言ったと記されています。「評定所に召出されるうえは事容易にも済まじとおぼゆるなり。もし手ちがいありて御咎めを蒙り家督相続致しがたきにおよばば、浪花津に居をしめて汝が好む妻をめとり、一生をこころやすくすべし。衣食は父が送るなり、たとえ家を継がずとも父の為に身を捨つるの孝おおいなり、すこしも悔ることなかれ」 これを聞いて富蔵は「その女とはなけれども慈愛のなぞに守信よろこびいかばかりぞ。嬉しさをむかしは袖につつみける、今宵は身にもあまりぬる。本望達し父の怨をば討捨てたり、心にかかる事なければ、何なる罪科を蒙るとも悔るに足らずとよろこびぬ」と述べています。こうして長年にわたる父子の確執は氷解し、これが富蔵にとって何より嬉しかったことがよくわかります。


この事件は大きな話題をさらいました。近藤父子は評定所の取り調べの結果、意外にも近藤家は改易、重蔵は江州高島郡大溝藩主の分部左京亮光実にお預け、富蔵は八丈島へ流罪に処せられることになったのです。平然と不法行為を犯し乱暴狼藉を繰り返す半之助らを討つた旗本が改易、重罪に処せられた背景には、前述したやうな重蔵に対する反感があったと見るべきでしょう。


当時、日本には頻々として外国勢力が迫つており、前年には異国船打払令が出たばかりでした。北方探検に勇名を馳せた重蔵は小普請組に降格されたとはいえ、ロシアの野心に対抗すべく北方の護りをいかに固めるか論策を急いでいたのです。


これらすべてが水泡に帰すことになり、失意の極みだったはずなのに、大溝藩に預けられた重蔵は改易処分にさほど動じた様子を見せません。肉食好みの健啖ぶりで、賄方では遠方から材料を取り寄せることも多く出費がかさんだといった具合で、預かりの身など気にかける様子もなく平然としていたとそうです。


こうした父重蔵の剛胆な気性は富蔵にも受け継がれていたようで、入獄した小伝馬町の牢は環境劣悪で牢死する者が跡を絶たなかつたらしいのですが、富蔵は驚くべき食欲を見せ、「元気サラニオトロエズ、…少シノ病ナシ」といふほど意気軒昂としていました。


傍から見れば、この父子には共通して尋常ならざるものが感じられたにちがいありません。共に頑健な体躯だったらしく、特に富蔵は六尺豊か(一八〇センチ)だったそうですから、当時としてはかなりの大男でした。ただし富蔵は、父の派手好みとは対照的に、地味な、禁欲的でさえある生き方を選んでいたのです。それを支えていたのは主に仏教だったようですが、しかしその中身となると、はっきりはわかりません。ただしこのあたりから富蔵という人の個性が現われ始めており、小林秀雄のエッセイの中の次の箇所がそれをとてもよく描いています。


富蔵の事件は、ずいぶん当時評判だったらしい。それで富蔵は牢屋にいて、退屈まぎれに事件を読本風に書いたのだが、それに彼の実に何とも言えない性格がよく現れている。勿論現わそうと思ったから現れたのではない。形式は全く読本なのだ。しかも実に拙劣で、出鱈目な形のものなのだ。そこから、彼の実に強い性格なり、精神力なりが、形式を破って顔を出して来る。殺しの描写など実に生々しい味わいがある。真っ暗やみの中を次々に殺して行くのだな。少しも残酷という感じがしない。それは、描写の適確さから来ているには違いないのだが、描写の正確さなどと言われたって富蔵には何のことやらわかるまい。彼には文士気質など皆目ないのだ。下男夫婦が喧嘩の助太刀をする。人を斬るという初めての経験で、すっかり昂奮して、間違えて主人に切りつけたりする、そのあわて方がよく描かれている。これも昂奮している下男の女房に向って、かねての約束の色事を、この際どうだなどと言っている。


こういう筆力の味わいは、これはどうしても行動しながら自分の行為を達観し、これを超脱しているそういう富蔵という人間に直接由来するものだと思わざるを得なかった。それが私には非常に面白かったのです。するとそういう彼の精神力を育てたのはどういう教養であったかという事になるのだが、これがまるで解らない。彼の教養の中心部は仏教だった事には間違いない。それも寺の娘に恋慕したという事から、ずるずるとそういう事になったというだけのことだが、それだけの事で仏教と言えるかどうか、知らないが、ともかく全く自分流に生きた思想はしっかりと掴んでしまう。そう言うより他はないものがある。牢屋にいても、念仏ばかり唱えている。真言陀羅尼だとか何んとか言っているが、何が何やらこちらにはわからない。わからないが、本物であって、嘘はないという感じはある。それだから、牢屋に長い事いれば誰でも病人になってしまうのだが、彼はいよいよ元気になって来る。御飯八十椀、餅菓子三十四、五平らげるなどと書いている。毎日、人の五人分を食して病なしと言っている。


これに続いて富蔵は次のように述べています。「守信は入牢の日より光明真言十万遍を発願して仏天に祈誠し、父守重をはじめ家来……また半之助親類縁者に至る迄引合の者共何とぞ無難に解脱を得せしめ給え」 父を窮状から救うために斬り殺した半之助たちにもお経を唱えていることがわかります。



八丈島は、いわば富蔵流の神儒仏の混合した宗教的生活を実践するための格好の道場となったのではないかと思われます。とりわけ彼は徹底した不殺生戒の実践者になっています。葛西重雄・吉田貫三著『八丈島流人銘々伝』(第一書房 一九七五)にはそうした彼の生活が次のように紹介されています。


八丈島に流された富蔵は三根村に割当てられたのであるが、彼は鎗ケ崎での七人斬りを後悔し、殺生を一切厳禁して、しらみまで殺さないというざんげの生活に入り、文政十一年、浮田小平次の後裔と言われる大賀郷村の農業沖山栄右衛門の娘逸(いつ)を貰い、その後一男二女の父となった。


彼は六尺豊かの大男であったと伝えられているが、生来器用な彼は、仏像を刻み、位牌入れを造り、絵を画き、石垣を築き、旧家の系図を整理し、経師や畳屋の仕事までもして苦しい流人の生活を支えたのである。しかし、彼は洗うような貧困と闘いながらも、和歌、俳句をたしなみ、旧家の古文書をあさり、島民の教育啓蒙に尽力し、狂信的な仏徒でもあった。



八丈島には彼の剛力、無欲、大食、侠気に関する数々の逸話が遺っているけれども、いずれも彼を知る上の興味深い資料と言えるものであろう。



彼の遺したものには、和歌あり、俳句あり、彫刻あり、仏像あり、仏龕あり、屏風あり、石垣あり、系図あり、為朝の凧絵ありというように、いかに彼が他方面に活躍したかが窺われるのであるが、その中でも特筆大書しなけれならないものは、八丈実記六十九巻であろう。


……


慶長十一年(一六〇六年)……から明治四年(一八七一年)まで、八丈島に送られた流人の数は千九百人にも上るのであるが、その多くは怏々悶々として楽しまず、或は怒り、或は恨み、或は悲しみ、或は虚脱状態に陥って、いかにも暗い陰翳を止めているのであるが、そんな流人の中にあって、彼は島を愛し、島民を愛し、誠心誠意士たるに恥じない生活を送ったのである。


実際、相当な悪者や、女犯などの罪で送られてきた僧侶も、生活の激変の中でたちまち元気がなくなり、意気地のない者になり下がっています。確かに食料も慢性的に不足しており、飢饉もあったので、そうなっても仕方なかったでしょう。富蔵自身も餓死寸前まで追い込まれたことがありました。が、そんな状況の中でも、まさに逆境をバネにしてきわめて創造的な人生を生きているのです。小林秀雄は、富蔵に関するエッセイの最後で次のように述べています。


八丈島の生活が始まってから、彼の仏者としての信仰はいよいよ強いものになったようだが、その内容はというとこれは難しいことになるだろう。嘗て鉄斎を調べていたころ、彼は自ら儒者と称していたが、その儒という言葉の内容となるとまことに複雑な思想内容からなっていて、到底その分析は不可能だる事を痛感したことがある。富蔵の場合も、この好学の士が仏者の観念のうちに勝手にどんな思想的要素をたたきこんでいたか、とても解るものではない。彼は、自分でもその教理を説くことが出来なかった。だがその思想の中心をなす生命は、「八丈実記」に現れたと言っていいのでしょう。一年に数回しか船の往来のない孤島で、人々が、自然と直面して一所懸命な生活をしている、その有様に、汲めども尽きぬ人生の真相があると観じたのでしょう。これを綿密に観察し、誰に読ませる当てもなく、これを忠実に記録して、決して己れを語らない。それが彼の仏道となった。この膨大な地理民俗誌が、彼の光明真言十万遍になったわけだろう。



維新となって流人は皆大赦にあって帰るのだが、役人の手違いで彼は島に残される。彼は一向平気なのである。明治十三年に赦免になるが、……初恋の女の生家を大阪に訪ね、空しく東京に還って来る。維新の新気運などには、何の興味も示していない。還り際に、品川の宿で一泊し、隣室の客と歓談する。客が敵を討つ積りでいる事を知り、柔術の手を伝授し、かようにしなければ、人は殺せぬと教えて八丈島に去るのです。思想上のドラマというものはむずかしいものだと思う。


帰島後は三根村の大悲閣尾端観音堂の堂守となり、長楽寺大誠和尚に弟子入りして、念仏一途の生活を続け、明治二十年に八十三歳で亡くなっています。最後に、彼の人柄をしのばせる和歌をご紹介しておきます。


むさぼりとへつらふ世には賢きは山の奥にぞ墨染の袖


長命は不殺少欲嘘つかず少食少酒働くがよし
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