第16回 文化と文明の対立--ウィルバーの四象限を見るもう一つの目
今回は何らかの形でウィルバーに言及した内容にするよう、京都の若林さんから依頼がありました。筆者は四年ほど前岡野主幹の依頼で『万物の歴史』を訳しましたのでそれなりにウィルバーを理解しているはずだと思われるかもしれませんが、正直のところ彼の良い理解者とは言えません。それで今回お話したいこともちょっと脇道にそれるものになってしまいますが、どうか御容赦ください。
今年の一月中旬に『ワークショップ』という、なんの変哲もないようなタイトルの本が岩波新書として出され、あっという間に三万部が売れるという画期的な出来事がありました。著者の中野民夫さんは日本トランスパーソナル学会常任理事で、いつも親しくおつき合いいただいています。昼間は博報堂で仕事に携わっており、典型的な「二足の草鞋」生活の中で長年したためてきた思いを一挙に世に問うたものです。その中にあったいくつかの図(省略)を見て、編者は中野さんに「あの図はウィルバーの四象限図を参考にされたのではありませんか?」と尋ねると、やはり図星でした。それらの図をじっと見ていると、「ワークショップ」をキーワードにして、わが国の大小様々なグループの分布をとてもよくわかりやすく示してくれていることがわかります。もちろん一つの分類の試みであって、これですべてが網羅されているわけではありませんが、物事を整理する上でとても参考になります。サングラハの皆さんはこの「ワークショップ四象限図」のどこかに自分を位置付けられますか? 自分の関心/活動領域が一象限だけではなく、複数象限にまたがっていることに気づく方もかなり多いのではないでしょうか? そして一つの活動/運動集団としてのサングラハ自体はどうでしょうか?
ワークショップの参加者たちは、通常、これらの活動を昼間の仕事が終わった後、あるいは週末におこないます。そこにはお金を稼ぐために働く職場と違って、気の合った仲間たちがおり、しばしばとても居心地がよいので、あまりのめりこむと今度はワークショップ依存症に陥る危険性すらあるほどだそうです。ここにはどんな問題が伏在しているのでしょう? で、それに探りを入れることによって、ウィルバーの四象限図を読み解くための一つの見方を得ることができるのではないかと思っています。
ここに伏在している問題の一つとは、いささかものものしく聞こえるかもしれませんが「文化と文明の対立」のそれです。言われてみれば当たり前のことなのですが、このことを改めて教えてくれたのは、いささか唐突ながら『超人の悲劇││ドストイエフスキイの生涯と哲学』(一九二〇年に原書が発表され、一九四〇年に邦訳出版)という本でした。これについては先日刊行された
『カミング・ホーム』の巻末でやや詳しく紹介しておいたのですが、ここで改めてその一部を紹介させていただきます。
著者のヤンコ・ラヴリンはノッティンガム大学スラヴ語教授で、彼はこの本の中でまずドストエフスキーの伝記を概略した後、以下のようなテーマで議論を展開しています。ドストエフスキーと近代芸術、心理学者としてのドストエフスキー、絶対的価値への苦闘、宇宙的反抗、虚無との闘い、超人の破綻、キリストとその二重人格、宗教的自己主張、新しき総合へ、文化と宗教、ロシア精神。
ここで問題になるのは「文化と宗教」という章で、この中でラブリンは、多くの混乱があるうちでも、特にはなはだしいものの一つとして「文化と文明」のそれを挙げています。彼は、「文化とはいっさいの内的価値(宗教、芸術、哲学)の複合」であるのに対して、「文明とはいっさいの外的価値(産業、技術、貿易、政治等)の総額」として規定できると言い、そして大略次のように述べています。
個人/国民とも高度に開化していながら、しかも同時に文化を持たない場合がありうる。高度の文化を持ちながら、しかもずっと低度の文明しか持たない民族がいる││例えば古代インド人││一方、大いなる文明を持ってきたが、比較的低い寄せ集めの借りものの文化しか持たない国民││例えばローマ人、そして現代ではアメリカ人││がいるのである。歴史の隠れたドラマは、人類の内的価値と外的価値との永遠の闘い、精神と物質、文化と文明との闘争であるとさえ言いうるであろう。
問題は、外的価値(文明)と内的価値(文化)が、互いに他方を従わせようとして争うのが常だということにあり、両者間の均衡が揺らぎ、両者の速度の差が開けば開くほど、一方の他方への脅威はますます切迫します。例えば、文明の速度は文化を犠牲にすることによって高められる。この両者の分裂は、文化の諸価値が文明の諸価値にまったく屈服し、息の根を止められ、吸収されてしまう点にまでも進みうるのであり、ついには「文明が強力であればあるほど文化は貧弱であり、我々が『開けて』いるほどその教養は貧困である」というパラドックスに到達する。「現代のいわゆる進歩発達なるものは、不幸にしてこの方向に進んでいる」のであり、そしてドストエフスキーは「ヨーロッパ文化は挙げて純粋に外的な諸価値に漸次消耗され、支配されつつあり」、「技術的」文明の領域への`死の舞踏aがドイツを筆頭にヨーロッパ諸国で急速に起こりつつあるのを目の当たりにしたのです。
技術的文明への急速な流れを変更するためには、文明を文化価値に服従させうるような「高貴な思想」を見出し、それを持たなければならない。さもなければ、文化そのものが永久に滅びるであろう。人類の避けがたい機械化の進展と、いっさいの内的価値を押しのけ踏みにじりながらの、唯物化と近代文明の大いなるバベルの塔の急速な拡大。科学が人類にとって破壊の発頭人になる一方、宗教はどんな真実の精神的な更生と向上をも妨げる、動きのとれぬ「信条」にまで堕落した。今なお残存する文化の諸価値は機械文明の巨大な成長にうち克ち、それに方向を与えるほどに強力ではなくなってしまった。それどころか、かえってみずからを後者の諸目標に適合させ、これまでに地球が産んだ最大の怪物││近代資本主義││のために道を拓いた。
このような状況に対してドストエフスキーがどのように対処しようしたかについては『カミング・ホーム』の巻末をお読みいただければと思います。ここで筆者が指摘しておきたいことはただ、「外的価値(文明)対内的価値(文化)」という図式に照らしてみると、私たちが置かれている状況がとてもよくわかるのではないかということです。つまり、今や科学技術文明の圧倒的優位の下で、私たちの文化は東京湾にわずかに残された干潟程度の危うい存在になり下がっているということです。千葉県で女性中心の草の根票を支えにして新しい女性知事を誕生させた裏には、これまでの男性中心的・環境破壊型の生き方に対して、土俵際ぎりぎりでこれ以上の破壊を食い止めようとする女性中心的な新しい力の擡頭が感じられます。
実はどの程度かは別として、私たち一人ひとりの内面でこの内的価値対外的価値の闘いがずっと以前から続いていたのです。それがどんな形で現われるかを示す一例がチャールズ・タート著
『覚醒のメカニズム』(吉田豊訳 コスモス・ライブラリー)中の「実存的神経症」に言及している箇所で示されています。
サイコセラピストたちは、通常の神経症患者--通常の発達課題のすべてを習得しなかったために幸福ではなかった人々--を治療することが常であった。彼らは「正常」になり、正常な人々のように適応し、人生を楽しめるようになりたかったのである。それから、新種の患者--社会的な基準では成功しているのだが、しかしなお満足していない人々--が出現し始めた。典型的な不満はこんなふうかもしれない。「私は自分が働いている会社の副社長をしており、いつか社長になるかもしれません。お金はかなり稼いでいます。地元で尊敬されています。幸せな結婚生活を送っており、可愛い子どもたちがいます。家族で、年に二回、素晴らしい長期休暇を取ります。けれども私の人生は虚しい。何かこれ以上のものはないのでしょうか?」
セラピストたちは、そのような患者たちが、どのように暮らしたらいいかよりはむしろ人生の究極的な意味についての疑問と格闘していることを示すために、彼らのことを「実存的神経症患者」と呼んだ。しかし、この用語は、いかにセラピストたち自身が依然としてわれわれの文化の思い違いにとらわれているかを示した。通常の生活は充分ではないと感じることがなぜ「神経症的」だったのだろうか? 今、われわれは、成功した不満家が不幸だったのは、彼らの精神的・霊的生活が空虚だったからだ、と認識できる。合意的トランスは、実は、生まれつき目覚める能力を持っている存在にとっては充分なものではないのだ。「実存的神経症」は、実際は、潜在的成長の健全な徴候なのである。
この人はおそらく会社役員としてもっぱら外的価値を追求する経済活動に先頭を切って邁進してきた過程で内的価値をおろそかにし、そのために徐々に内面的虚しさがつのっていき、とうとうある日その内面的虚しさが一気に意識表面に浮上してきたのでしょう。で、この種の中高年者は今後ますます増えていくのではないでしょうか? 突然「人生の意味」という「文化的」問いを発するというのは、個人史においては一大危機かもしれませんが、しかしそれは「より高い意識」に向かっての第一歩かもしれないのです。実際、私たちはこの内的葛藤を経て、自分の心を鍛えていくことができるはずです。
このような事態に照らし合わせると、サングラハやトランスパーソナル心理学といった運動体が、危機に瀕している内的価値の擁護・推進という崇高な使命を担っていることが改めて実感されます。ただし文化の側に立つ人は通常経済的には割に合わず、貧乏とは言わぬまでも楽な暮らしはできないということを覚悟しておくべきでしょう。物質的に豊かになるためには、様々な意味で文明と妥協しなければならず、その分だけ文化の擁護・推進に注ぐべきエネルギーを減らさなければならなくなるからです。両方ともうまくいくということは、残念ながらごく稀な場合を除きまず期待できないでしょう。
『超人の悲劇』の中で、ラブリンは次のように述べています。「無意識というこの危険な領域の探求を通じて、ドストエフスキーは『凡庸な正常』と『正常な凡庸』のあらゆる説教者たちと反対に、下意識と日常意識と超意識とがせめぎあい、多数の『自我』の分裂に悩まされ、分裂過程のうちにある個人の内面に、むしろ精神的発展に不可欠の『より高い相』を見た。彼は、人間の内面的進化はおそらくその精神の最も苦しい危険な分裂を経てなされるものであり、しかもそれをもちこたえ克服するほどに逞しい者だけが、新しい意識的統一と超常態的な総合に達しうるのだということを自覚していた。」
「天上的なものと地上的なものとを融合させ、調和した『超人』の幻想を、ドストエフスキーは、その意識が拡大して神、宇宙および永遠がもはや単なる観念ではなく、生きた内的実在となった神人の方向に見た。しかもその方向への歩みは、あらゆる疑惑と否定とを孕む我々の内的矛盾から顔を背けず、それに直面することによって可能になる。この苦痛に満ちた行程はさらに進展して、我々の内面を戦場として選ぶ永遠の宇宙的葛藤をさえ含むに至る。そしてこのような葛藤が人間の意識の内に起こることを感ずれば感ずるほど、世界構成、世界進化への我々の個人的な接触と参加とが緊密になるであろう。宇宙の大いなるドラマは、我々個人のドラマとなる……我々の一人ひとりが全世界全生命に対して責任を持つ、すべてに対して、あらゆるものに対して責任を持つ。これがその論理的帰結である。」
以前ご紹介したトルストイとドストエフスキーの生活と芸術に関する初期の優れた評論『トルストイとドストエーフスキイ』(昇曙夢訳 創元社 一九五二)の中で、著者のメレジコーフスキイはプラトンのある寓話に関して、次のように述べています。
神的な情熱(エロス)の力を受けて人間の心に翼が生え始めた。そして人の心はあたかも歯の生えかかった子供の病気のような何物かを感じたと。このギリシャの哲人は、我々には幾分奇怪に見えるような解剖学的精密さをもって、次のように叙述している--この霊の病いは、あたかも何かしら疼いて、膿んで、膨れ上がって、狭苦しい「肉」の覆いを突き破ろうとして、しかも破りえないかのごとき「痒さ」、「むず痒さ」から始まる。そして次に掀衝する(炎症を起こす)腫物ができて、ついに翼の生え出すべき箇所に、恐ろしい膿を持った傷が生ずる。その時、霊の全体はあるいは熱のために燃え、あるいは悪寒のために震えて、あたかも死なんとするがごときありさまを呈すると。
種子がもし落ちて死ななかったならば、それはまた生えもしない。物を創造する生の苦しみは、もっぱら物を滅ぼす死の苦悶のごときものである。「今日の人類が経験している新しい生活様式への推移のためには、その内的状態において不必要な無益な苦痛が生ずる」とトルストイはその著『神の国』の中で言っている。すなわち「出産の時と同じようなことが生ずる。いっさいは新しき生を待ち構えている。けれども新しき生はまだ姿を見せない。形勢は望みなきように見える。」 しかるに数行の後には彼は飛翔や翼や「新人」について語り、新人は「あたかもそれまで垣の中に囲まれた鳥が今やその翼を拡げて自由な気持になるがごとく、おのれをまったく自由なものと感ずる」と語っている。