第21回 「超正常」への道としての真の教育
孔子はその当時の政治家たちから迫害されただけではない。彼とその弟子たちは、別の階層の人々、隠者からも厳しく批判された。隠者は堕落した時代にあって権力を得ようと企てることの空しさを指摘し、世の中から逃避することを勧めた。そして自己の才能を伸ばす出口を見つけたいという悲しい願望のため、孔子が経歴に疑惑のある軍隊の成上り者に傭われようと考えたときには、弟子たちさえも批判の矢を向けたのである。世の中を救いたいという精魂をつくした願望を抱いただけで、彼はあらゆる方面からの敵意にとりまかれたのである。
世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
罪を犯すことへの恐れ、慈悲深くないと見られたり、心が広くないと見られたりすることへの恐れから、正当化するに値しないものを正当化することによって、この世に多大な悪が生じている。キリストは感傷的ではなかったし、不快な真理を語ることを決して恐れず、行動することを恐れなかった。両替人たちを境内から追い出したことは、最も注目すべき寓話であり、「この世」に対するキリストの態度、そのためには神殿さえもひっくり返そうとする態度を示している。
想像してください。仏陀が悟りを開いたまさにその日、彼はその認識のために捕えられ、磔にされたと。そして、彼の信奉者たちも同じ認識をしたと主張したならば、彼らもまた磔にされると。私に関して言えば、これにはがっくりします。
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誰も君たちに教えることはできないが、しかし君たちが学ぶことはできる。学ぶことと教えられることとの間には、大きな相違がある。学びは一生涯続くが、それに対して教えられることは数時間か数年間で終わる--それから後はずっと、一生涯君たちは教えられたことを反唱していくのである。教えられたことはすぐに死灰と化す。そしてそれから、生き物である生は、無駄な努力の戦場になる。君たちは、生を理解するひまやゆとりもないまま、生の中に放り込まれる。君たちが生について何かを知る前に、君たちはすでにその真只中にいて、結婚し、仕事に縛られ、社会は情け容赦なく君たちのまわりで要求を突きつけてくる。人は、最後の瞬間にではなく、幼い子供の頃から生について学ばねばならない。ほぼ成人してしまったときでは、もうほとんど手後れなのである」。
君たちは、生とは何か知っているだろうか? それは、君たちが生まれた瞬間から、死ぬ瞬間、そして多分それ以上にまで及んでいる。生は、広大で複雑な、一つの全体である。それは、何もかもが中で同時に起こっている家のようなものである。君たちは愛し、そして憎む。君たちは貪欲で、ねたみ深く、そして同時に君たちはそうであるべきではないと感じている。君たちは野心的である、そして不安や恐怖や冷酷のあとに挫折や成功が続く。そして、遅かれ早かれ、そういったすべてについての空しさの感情が生まれる。
誰もが有名になることを望み、事業、宗教あるいは国家の名において自分自身のために努力し、そのようにして誰もが互いに敵同士であるような、野心や羨望や利欲心に基づいた社会を築き上げ、そして若者はそのような分裂した社会に順応し、その堕落した枠組みに適合するように「教育」される。
君たちには、数学や文学等々を教えてくれる教師はいる。しかし、教育というものは、知識の単なる蓄積よりも何かもっとはるかに深く、かつ広いものなのだ。教育とは、行為が自己中心的にならないように精神を陶冶することである。それは、安泰になるために精神が築き上げる壁--そしてそこから恐怖が、そのすべての複雑さとともに生じるのだが--を打破すべく、一生涯学ぶことである。正しく教育されるためには、君たちは怠けていないで一生懸命学ばねばならない。遊戯に上達するようにしなさい。しかし他人を負かそうとせず、楽しく遊ぶようにしなさい。適切な食物を摂り、健康を維持するようにしなさい。精神を機敏にさせ、そしてヒンドゥー教徒、共産主義者、あるいはキリスト教徒としてではなく、一人の人間として、生の諸問題に取り組めるようにしなさい。正しく教育されるためには、君たちは自分自身を理解しなければならない。学ぶことをやめるとき、生は醜悪で、悲しいものになる。優しさと愛なしには、君たちは正しく教育されることはない。
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誰も、自分が通常の発達課題をこなしそこなったとは思いたくない。けれども、もしあなたがこなしそこなったら、表向きその苦痛を軽減するための一つのやり方は、新しい見方をすることによって自分のこなしそこないを合理化することである。「私はこなしそこなったりなんかしていない。他の皆が偽って正しいと言っていることが間違いであり、まやかしであることを見抜き、それを超越してしまったのだ!」 たとえば、もし人々と気持良く話し合うことができなければ、それは自分がいくつかの基本的な社交的技能を習得しなかったからではなく、他の人々がまやかしであるか、冷酷であるか、気配りが足りないからである。当然、優秀で繊細な存在たるあなたは、彼らに取り巻かれていると気持良くしていられないのだ! もしあなたが安定した勤めを維持することができなければ、それはあなたが一定の共通技能を欠いているか、あるいはそれらを用いようとしないからではなく、労働者たちを搾取し抑圧する資本主義制度が悪いのである!
ここに、覚醒や悟りについての観念の危険性が入り込んで来る。あなたがさまざまな通常の発達課題をこなしそこなった場合、これらの観念が、自分の欠陥に直面し、それらの是正に取り組むのを避けるための魅惑的でもっともらしい合理化を提供する。「私が通常の人々に取り囲まれていると気持良く感じないのは、まさにグルジェフが言ったとおり、彼らが眠っているからだ。だから、私のような繊細な魂の持ち主、求道者、がなぜ彼らと付き合わなければならないのだ?」「私がどの勤めにも長く留まらないのは、愚かな文化適応のまやかしを見抜いているからだ。私は、腰を据えて愚かな労働者の境涯に甘んじるといった、凡庸で堕落した状態を超越しているのだ」。覚醒や悟りについての観念は、せいぜい、あなたがどのみち本当は変えるつもりのない、自分の状況についての心地好い白昼夢をかきたてるだけである。最悪の場合、それらはあなたが持っているなけなしの社交的技能をも手放すことを助長し、自文化へのさらなる不適応に資する一因となる。